職務中に東日本大震災の津波にのまれながら生還した宮城県石巻市職員の今野照夫さん(64)が震災当日から420日間、克明に書き続けた日記がある。同僚17人を失った職場でリーダーの一人として地域の復興を手探りで担い、被災自治体がどんな課題に直面したのかを時系列で記録していた。「後世の役に立つなら」と15年の歳月を経て日記の存在を明らかにした。(石巻支局 高倉正樹)
今野さんは当時、市北上総合支所の地域振興課補佐だった。2階建ての支所は指定避難所だったが、想定の2倍を超える高さ14メートルの津波が押し寄せ、職員や避難した住民ら57人のうち54人が犠牲となった。今野さんも波にさらわれて2時間ほど漂流し、民家に流れ着いて助かった。
翌朝、災害対策支部が置かれた中学校体育館まで歩き、公務に復帰した。日記にはこうある。
<甚大な災害だということは、理解できている。避難者と一緒に宿泊。ほとんど眠れない状態>(3月12日)
発生から2週間ほどは発電機やガソリンの確保に奔走した。連日泊まり込み、ろうそくの明かりで警察や自衛隊と協議し、ボランティアの受け入れや支援物資の配布を調整した。
4日目、職員をなるべく自宅で休ませるよう上司に提案した。以前、阪神大震災の報告書を読み、激務で自治体職員の体調悪化が相次いだとあったからだ。
4月に入ると不明者捜索に区切りをつけ、被災したまちの復旧に移っていく。
<遺体捜索を実施しながら、ガレキなどの撤去にシフトする必要がある。明日、展開方法を考えよう>(4月2日)
「行方不明310名、身元確認されたのは149遺体」「遺族に大変申し訳ない」とも記され、苦渋の決断だったとわかる。
支所職員は8人が死亡、9人が行方不明となった。同僚を救えなかったことに苦しみ、自分を責める記述が続く。業務は残された人員で手分けし、担当外の仕事もこなした。ようやく丸1日休めたのは6月4日。交代の泊まり勤務が終わったのは8月19日だった。
この年の夏、市職員の合同慰霊祭で代表としてお別れの言葉を読んだ。前日までに泣きながら書き上げた原稿の全文も日記にある。
<皆さんの無念さを思うと言葉がありません。なぜこれほど多くの人が死ななければならないのか? 答えが無いかもしれませんが、私はずっと問い続けることになるでしょう>(7月3日)
今野さんは2014年に市本庁に異動し、児童・教職員計84人が亡くなった大川小の震災遺構保存などを担当して遺族との調整にあたった。22年の定年退職後も再任用され、震災伝承課に勤める。「自分は『生かされた』という思いしかない。だからどんな仕事もつらいと感じたことはない」
当初の日記は紙に殴り書きで、途中からパソコン入力に切り替えた。夜に周りが寝静まってから書くことが多かった。「個人的な記述も多い」と存在を明かしていなかったが、十三回忌が過ぎた3年前に気持ちの整理がつき、世に問うことにした。今野さんは「当時を知らない世代が増えて震災の記憶が薄れている。災害対応の参考にしてほしい」と語る。