「8人の顔を思い出せば今でも涙が出る」…付属池田小殺傷事件から25年、当時の府警刑事部長が退官後初めて事件の詳細を語る

8人の幼い命が奪われた2001年の大阪教育大付属池田小(大阪府池田市)の児童殺傷事件から、8日で25年。大阪府警の刑事部長として捜査を指揮した松下義行さん(81)が読売新聞の取材に応じ、退官後初めて、事件の詳細について語った。「私も老い先長くない。8人のためにも、当時何があったのか、社会で共有したかった」(松田卓也)
小学校に刃物を持った男が入った。取り押さえているようだ――。
府警の旧本部庁舎3階。刑事部長室で聞いた部下からの一報では、死傷者がいるとの情報はなかった。「小学校なら、念のため行っておくか」。それぐらいの感覚だった。数十分で着くと、大量の捜査車両とパトカーが止まっていた。「これは大変な事件かもわからんな」
現場は想像を超えていた。散らばった小さな机や椅子、あちこちにある血だまり。修羅場だ。捜査1課長には「悪いけど、俺に仕切らせてくれ」と伝えた。家庭科室を臨時の指揮所にした。情報は捜査員が黒板に書き出していった。次から次に飛び込んできたのは、死傷した児童らの報告だった。
1963年に府警の警察官となり、志願して刑事畑を歩んだ。窃盗が専門の捜査3課や暴力団を取り締まる捜査4課で課長を務め、2001年、府警で初めてノンキャリアで刑事部長となった。「悪を捕まえたい」。常にその志があった。
現行犯逮捕された容疑者の宅間守元死刑囚(当時37歳、04年に死刑執行)の経歴を知り、不安がよぎった。過去の逮捕歴や精神科病院での通院歴。犯人であることに疑いはないが、責任能力の判断次第では、罪に問えないかもしれない。「ご遺族の気持ちを考えれば、不起訴なら辞めないかん」。そう覚悟した。
事件当日、亡くなった8人全員の検視に立ち会った。このうち7人の司法解剖が実施された大阪大にも、自ら足を運んだ。刑事部長が解剖に立ち会うのは極めて異例だ。全員の傷を見て、「錯乱した人間の犯行ではない」と確信した。切りつけた痕はほぼなく、急所を狙った致命傷ばかりだった。
解剖医には「7人の解剖を今日中に終わらせてほしい」と依頼した。「むちゃな」と言われたが、その場にいた捜査員にも遺体をきれいにする作業を手伝わせた。「一刻も早く、親元に帰してあげたい」。事件当日夕方に始まった解剖は、翌日午前1時頃に終了した。
校舎は長期間、捜査のためそのまま保存した。科学捜査研究所には、散乱した血痕について、DNA型鑑定で誰のものか特定するよう指示した。有罪の立証に必須ではないとわかっていた。
亡くなった一人で2年生の酒井麻希さん(当時7歳)は、教室で刺された後、よろけて壁にぶつかりながらも、玄関付近まで約59メートルを歩いた。必死に生きようとした証拠だった。判明した理由が、DNA型鑑定だった。「子どもの最期をご遺族に伝えたかった。取り戻せない命に少しでも報いたかった」
宅間元死刑囚はその後、殺人罪などで起訴された。事件から約1年半後の03年に府警を退官。危機管理を専門とする大学教授から声をかけられ、学校の安全について直接学んだ。関西国際大(兵庫県)で14~24年、客員教授などを務め、教員を志す学生らに向け学校の危機管理について教えた。
「さすまたが近くになければ机や椅子で防御する」「110番は必要だが、子どもから離れず、他の誰かに教員を呼びにいかせる」。授業では、自らが捜査で得た知見を踏まえ、実践に必要なことにこだわった。
大学を離れた今でも、危機管理に関する学会で当時の教訓を伝えている。「8人の顔を思い出せば、今でも涙が出てくる。あの現場で『あなたたちの命は無駄にしない』と誓った。生きている限り、誰かに事件のことを伝え、教訓にしてもらいたいと思っている」
「自分に何できたか」 元死刑囚弁護人 なお自問
宅間守元死刑囚の主任弁護人を務めた戸谷茂樹弁護士(80)は、四半世紀を経ても「自分にできたことは何だったのか」と自問を続ける。
宅間元死刑囚は面会時、「早く死刑にしてくれ」と言うばかり。罪の意識を持ってもらうため、遺族の調書を差し入れるなどしたが、謝罪させたいという願いはかなわなかった。
判決などによると、宅間元死刑囚は幼い頃から虐待を受け、周囲とトラブルを繰り返し、孤立を深めていた。公判では「もっと殺したかった」「世の中、全員が敵」と繰り返した。
自暴自棄の末に他者を巻き込む事件は後を絶たない。戸谷弁護士は「失敗しても絶望しない社会を目指さないと凶行は続く。だからこそ、宅間守という人物が存在していたことを忘れてはならない」と訴えた。