「お母さんはどこにいますか」拉致から48年 曽我ひとみさんが語る北朝鮮での24年間の真実【曽我ひとみさん講演録①・札幌】

「念願が叶いました」初めての北海道で語り始めた
2026年7月3日金曜日。昼間にもかかわらず、札幌の会場には大勢の聴衆が集まっていました。演台に立った曽我ひとみさん(67)は、紫のジャケットに白いブラウス、胸元には青いリボンのピンをつけ、手元に書いてきた原稿を持っていました。
「本日は、平日にもかかわらずたくさんの方がこの会場に足を運んでいただき、心より感謝を申し上げます」
そう静かに語り始めた曽我さんは、「生まれて初めて北海道に来ました。一度行ってみたいなとずっと思っていたのですが、念願が叶いました」と微笑みました。
穏やかな言葉の裏に、この講演にかける思いの重さがにじんでいました。
「話がとても下手でございまして」と前置きをしながら、「書いてきたものを読ませていただきたいと思います」と述べた曽我さん。
しかし彼女の言葉は一つひとつ、会場に静かに、そして確かに届いていきました。
“拉致されてから48年、それでも問題は解決していません”
今年で帰国から24年目を迎えます。
そして、拉致されてからは48年。半世紀近い年月が経ったことになります。これだけ長い時間が過ぎたにもかかわらず、拉致問題は一向に進展が見られていません。
「親世代が元気なうちに解決を」そのスローガンを新たに掲げ、この2年余り家族会が活動してきましたが、何の成果も得られませんでした。
母を含む拉致被害者の救出のため、この先の1年が、たったの1日が、もう待てない、と訴え続けてきました。けれど現実は残酷なものです。進展のないまま、また今日を迎えてしまいました。
私の願いは、母を含む拉致被害者全員の帰国です。そのためにも、高市総理はじめ政府関係者、関係機関には早期に日朝会談の場を設け、拉致被害者全員の帰国に向けて交渉してほしいと思っています。
“思い出すのも忌まわしい日、でも決して忘れることのできない日です”
昭和53年(1978年)8月12日、土曜日の午後7時過ぎのことです。
当時、佐渡総合病院附属准看護学院の寮に住んでいた私は、週末になると必ず実家に帰っていました。その日も当然、実家に帰っていました。母はいつも通り仕事に出ており、帰宅後は家族で夕食を取りました。
翌13日はお盆を迎えるということで、母(ミヨシさん当時46歳)はお墓に供える赤飯の支度をしていました。準備をしていて足りないものがあることに気づき、買い物に出ようということになったのです。
日も暮れかかっていましたが、特に警戒することもなく、2人で近所の雑貨店まで出かけました。家からそう遠くない、400~500メートルくらいの距離でしょうか。 同じ集落内にある雑貨店で買い物をし、店を出てたわいもない世間話をしながら歩いていたのですが、後ろの方から人の足音がしてきました。特に私たちを抜き去るほどのスピードで歩いているわけではなさそうでしたが、それでも感覚が徐々に縮んでいる気配を感じました。
母と2人、後ろを振り向きました。3人の男性が歩いています。「なんだろうね、ちょっと気味が悪いな」と母と話しながら歩いていましたが、特に身構えて警戒することもなかったように思います。
家まであと100メートル足らずというところまで来た時でした。男性3人が足早に駆け寄り、私と母に襲いかかってきました。抵抗することもできず、口を塞がれ、手足を縛られ、南京袋のようなものをかぶされ、担がれて川まで連れて行かれました。
現場に着くと、男性と女性が何かを話しているのが聞こえました。日本語で話していましたが、女性の話す日本語が少し変だなと思ったのです。けれど冷静に状況を分析している場合ではありませんでした。
それから小さな船に乗せられ、沖まで連れて行かれ、別の大きな船に乗り換えました。窓もない暗い船室に押し込められていたので、外の様子を知ることはできませんでした。
自分がどうなったのか、これからどうなってしまうのか。身に起きた出来事にただ恐怖するだけで、声を殺して泣くしかありませんでした。
翌13日の夕方5時、腕にはめていた時計を見たとき、船はどこかに着いていました。甲板に出て景色を見ると、全く見たことのない寂れた感じの港でした。
日本語を話すおばさんに「ここはどこですか」と尋ねたら、「ここは北朝鮮という国だ」と言うのです。私は聞いたこともない国名に、内心驚いていました。そんな名前のところがあったんだ、今まで聞いたことないけどな、と。
“指導員に聞きました。『母はどこにいますか』と”
船を下りると車が待っていました。車の中にはとても偉そうな感じの男性が乗っていました。多分、工作員の責任者といった立場だったのではないかと思います。
その人の話では、これから列車で平壌というところに行くとのことでした。通訳を介して、私は思い切ってこの男性に聞きました。「母はどこにいますか」と。
するとこの男性は「お母さんは日本で元気に暮らしているから心配しなくてもいい」と言いました。この答えに納得したわけではなかったのですが、男性のこれ以上何も言うんじゃないという威圧感に、それ以上母のことを尋ねることはできませんでした。
途中、知らないところで一泊し、翌日の夕方駅に着き、列車に乗り込みました。列車に揺られ平壌に着いたのは15日の早朝でした。そこから招待所まで連れて行かれました。
招待所に着く前までは、本当に北朝鮮というところなんだろうかと半信半疑だったのですが、招待所の中に入って壁にかかっている2人の肖像画を見た途端、異国であることを確信しました。
この時から日本語を話すおばさんとの生活が始まりました。この女性は後に国際指名手配されたキムヨンスという工作員です。拉致を実行した犯人と私が結婚するまで一緒に暮らしていたのです。今考えてもおかしな環境にいたものです。
“あの時のめぐみさんの笑顔は、今でも忘れることはありません”
平壌の招待所で生活し始めて数日後、組織の幹部らしい人が来て「今日から別の招待所に移る」と言われ、慌ただしく引っ越すことになりました。
招待所に着くと1人の女の子がいました。彼女は笑顔で私を迎えてくれました。
その女の子は、横田めぐみさんでした。
ちょうど私の妹と同じくらいの年でした。だからなのか、それともずっと1人ぼっちだったせいなのか、彼女とはすぐに仲良くなりました。私といる時はいつもニコニコとあの可愛らしいえくぼを見せていました。
彼女との8か月の生活はそれなりに大変でしたが、それまでの孤独な生活を思えば、嫌なことを考える時間がなくなっただけでも大違いでした。
めぐみさんと2人っきりの時や夜寝静まった時など、本当に本当に小さな声で誰にも気づかれないよう注意しながら日本語で話をしました。家族のこと、友達のこと、学校のこと。また外に出る機会がある時は、ちょっと離れた場所に行って日本の歌などをこっそり歌ったりもしました。
指導員に見つかれば大目玉を食らうことは分かっていましたが、やっぱり2人とも日本が恋しかったのです。
とにかく日本に帰りたかった。毎日毎日、どうしたら日本に帰れるか、なんとかして帰れないかと考えてばかりいました。