「沖縄と戦争」見つめる旅に終わりはない 写真家・松村久美さん

今年4月13日~6月3日、米軍のベトナム戦争出撃拠点であった1970年代の沖縄を舞台とした写真展が、東京工芸大学の写大ギャラリー(東京都中野区)で開催された。撮影者は、カメラマンとして一貫して沖縄を見つめてきた松村久美さん(79)。松村さんの目に映った、当時の沖縄にはどんな戦争の影があったのか、また写真展を通して伝えたいことを取材した。【青山学院大・米田麗美(キャンパる編集部)】
爆撃機墜落で知る「戦場」の現実
松村さんは47年に生まれ、東京写真大学(現・東京工芸大学)で報道写真について学び、68年に卒業した。松村さんが初めて沖縄に足を運んだのは、大学卒業後の68年11月だ。「八重山諸島の祭事に興味があり、見てみたいという単純な気持ちから2週間の沖縄旅行を決めた」と松村さんは振り返る。
沖縄に着いた次の日の同月19日、観光バスに乗った時だった。ちょうど嘉手納基地の近くを通りかかった時に、カーラジオから速報が流れた。「今朝、嘉手納を飛び立とうとしたB52が離陸に失敗し、墜落炎上して……」。本土から来た観光客は皆、事の重大さを理解しておらず、松村さんも例外ではなかった。「へー、と思って終わった」
観光を楽しんでホテルに帰ると、ロビーにはラジオが伝えた墜落事故を報じる地元紙の写真入りの号外が散らばっていた。写真を見て、超大型の戦略爆撃機であるB52の墜落によって多くの被害が出たのだと理解した。記事を読み、「基地のフェンスのすぐ近くの住宅街にまで墜落機の破片が飛んだ」「ものすごい音がして、住民は戦争かと思い跳び起きた」という内容に衝撃を受けた。「あまりにも沖縄のことを知らなかった、ここはまるで戦場じゃないか」
沖縄移住を決意
太平洋戦争で日本が敗れた後、米国施政下に置かれた沖縄には嘉手納基地などの米軍基地が置かれた。「住民の土地は強制的に接収され、広々とした基地になった」と松村さんは語る。そして米国が本格的にベトナム戦争に参戦した65年以降、沖縄は米国のベトナム攻撃の拠点となり、特に墜落事故が起きた68年の2月からは嘉手納基地にB52が常駐を始め、ベトナムをじゅうたん爆撃するため連日出撃していた。松村さんは、「ベトナムでは、沖縄は『悪魔の島』と呼ばれていた」と語る。
沖縄旅行のさなかに起きた、この予期せぬ墜落事故をきっかけに、沖縄に対する関心が一気に強まった。「自分はあまりにも沖縄を知らない。沖縄の現状を知らなきゃいけない」。大学時代に所属していた報道写真研究室の恩師に相談した。「沖縄に移住して、写真を撮ろうと思います」。恩師の紹介で毎日新聞社のグラフ誌「毎日グラフ」の仕事を確保し、69年には沖縄に移住した。
「圧政」が生む憎悪と国境を超えた親近感
70年12月、松村さんに強烈な印象を残す事件が起きた。コザ市(現沖縄市)で起きた「コザ騒動」だ。米兵が住民を車ではねたが、米軍の軍律維持を担う米憲兵(MP)は事故処理を巡り、騒然とする群衆に威嚇発砲を行った。この行為に地元住民の不満が爆発し、数千人の群衆が米軍車両を約80台焼く事態へと発展したのだ。
コザ騒動の10日ほど前にも、飲酒運転で主婦をひき殺した米兵が無罪を言い渡される事件があった。米国施政下の沖縄では当時、米軍人や軍属による犯罪が多発したが、警察による十分な捜査や司法手続きが行われず、住民が泣き寝入りする事態が多発していた。コザ騒動について松村さんは「米国による圧政への不満が一気に噴き出した」と説明する。
コザ騒動を報じる新聞記事に「黒人街で黒人兵百人がMPの車2台を燃やす」という記述があった。この記事を見た松村さんは「黒人街って何だろう」という思いで、アフリカ系の米兵らが集まるコザ市照屋の「黒人街」と呼ばれるエリアに、カメラ片手に足を運ぶようになった。
当時、アメリカでは黒人差別に抗議し、黒人の権利を主張する公民権運動に火がついていた。これに呼応し、沖縄でも基地内で黒人のアイデンティティーを主張する動きがあった。松村さんの写真展の展示作品の中にも「BLACK IS BEAUTIFUL」(黒は美しい)、「BLACK AND PROUD」(黒人であることに誇りを持とう)と書かれたジャケットを着て歩く黒人の集団が写されている。
松村さんによると、沖縄住民は、そんな彼らに対してある種の「親近感」があったという。「黒人の立場と沖縄の人々の立場が非常にクロスしていた。人種差別と人権無視の中で生きてきた黒人たちと、米軍圧政の中で暮らす沖縄の人たちという、同じ圧政を受けた民族というつながりが親近感を生んでいた」と語る。
松村さんによると、コザ騒動の時、「住民は黒人兵の車を逃がした」という証言があったそうだ。その頃基地内では、ベトナム戦争に反対した兵士による反軍運動や兵役拒否、海兵隊兵士による脱走など、米兵の反乱が相次いで起きていた。
黒人街では、出撃前の兵士の送別会が行われていた。ベトナムに初めて出撃する兵士たちは「二度と沖縄には帰れない」という気持ちで、手持ちのドルを使い尽くす。出撃を待つ兵士たちは「刹那(せつな)的に生きるしかなかった」と松村さんは語る。
自分を見つめ続けて
長い年月をかけて、沖縄にこだわり続けている松村さん。黒人街以外でも、反基地闘争や米軍基地労働者のストライキ、自衛隊の訓練など政治や軍事に関連するものから、ハンセン病療養所である沖縄愛楽園、離島の暮らしや祭事、風俗まで、幅広く沖縄を撮影している。78年には中南米の沖縄移民たちを訪ね歩いた。
まだ女性の写真家がほとんどいなかった時代、「ヤマトンチュ(本土出身者)」であることの葛藤を抱えながら、膨大な写真を撮影した。83年にはエッセー集「片想いのシャッター 私の沖縄10年の記録」(現代書館)を出版するものの、その後一時、沖縄や写真から遠のく。そして2006年から撮影を再開し、今に至る。
沖縄に対する見方は一貫して変わらないという。松村さんにとって沖縄を撮ることは「自分を見つめること」でもあるそうだ。今回、東京で実施した写真展のタイトルは「沖縄から<沖縄>へ 1969-79」。同タイトルには、「沖縄から離れたり戻ったり、沖縄から沖縄への旅に終わりはない」という松村さんの気持ちが込められている。
こだわりが凝縮された写真集
松村さんは、写真展の開催と同時並行で、沖縄での撮影成果を収めた初の写真集「この先の島じまへ 1969―1980 沖縄」(月曜社)を4月に出版した。「沖縄に魅入られて五十余年、なぜこれほどまでにひかれるのか」という思いを、「一つの形にして残したい、と思うようになった」という。4万枚に及ぶフィルムカットの中から写真を選び、撮影年月や場所の確認などに3年の時間を費やした。
松村さんと知己があり、同じく本土出身者として沖縄に関する資料保全・展示活動を続ける、東京都狛江市にある「狛江の小さな沖縄資料館」館長の高山正樹さん。その高山さんは、松村さんを「稀有(けう)な存在」と評する。「本土出身の写真家にとって沖縄は、たとえ大きな要素だったとしても、あくまでも本人の作品の中の一部であることが多い。一方で、松村さんは徹底して沖縄にこだわり、沖縄を撮り続けている」。数十年にわたり沖縄に向き合ってきた松村さんが今、初めて写真集を出すことを高山さんは「松村さんの、沖縄に対する真摯(しんし)な姿勢が表れている」と捉える。
今も戦争に向き合う沖縄
若い世代に向け、松村さんは「写真展や写真集を見ることで、70年代の沖縄をわずかではあるが知ることができる。当時の基地はベトナム戦争に利用されていたが、基地や米軍の存在は沖縄では変わっていない。今現在、石垣島、宮古島、与那国島には自衛隊のミサイル基地などが置かれ、要塞(ようさい)化が進んでいる。昔も今も本土防衛の『捨て石』的な存在であることに変わりはない」と指摘する。
その上で「いつでも戦争の危機は訪れる。70年代の沖縄における戦争を、遠い過去のこととして捉えるのではなく、戦争は今も続いていることだと認識してほしい。若い人たちにも、戦争をひとごとではなく、自分のこととして捉えてほしい」と語った。