※本稿は、垂秀夫『「力の時代」を生き抜く 戦略的思考』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。
尖閣諸島をめぐる問題は、しばしば「日中間の主権問題」として語られる。しかし、この理解自体が、事態の本質を見誤らせてきた。尖閣諸島の領有権・主権が、歴史的にも国際法的にも日本に属することは極めて明確であり、疑う余地はない。その経緯は、決して拙速でも、力による一方的な占有でもなかった。
1884(明治17)年、福岡の実業家・古賀辰四郎が人を尖閣諸島に派遣し、魚釣島を中心に商業利用の可能性を探った。当時は離島探検が盛んで、アホウドリの羽毛やグアノ(糞の化石。肥料になる)が高値で取引されていた時代であり、古賀もそうした事業が成立し得ると考え、政府に対して正式に尖閣諸島の利用の申請を行った。
これに対し、明治政府は軽々に領有を宣言することを避けた。井上馨外務卿は、清国への外交的配慮から慎重な姿勢を取り、直ちに領有措置を取ることはせず、約10年にわたり現地調査を継続する判断を下した。
この間、日本政府は、尖閣諸島がいずれの国の支配にも属さない「無主の地」であることを、地理的・歴史的・実態的に慎重に確認している。こうした十分な調査を経たうえで、日本政府は1895(明治28)年、国際法上の要件に則り、尖閣諸島を沖縄県に編入することを閣議決定した。
これは、国際法が求める①無主地であること、②領有の意思を明確に表明すること、③その後に有効な支配を継続すること、という3要件をすべて満たした、極めて正当な領有行為であった。
その後、民間人による開拓が進み、最盛期には約250人の日本人が居住し、アホウドリの捕獲や鰹節工場の操業など、継続的な経済活動が行われた。やがて水資源の乏しさや事業採算の悪化、自然環境の制約などから住民は撤退するが、それは領有権の放棄や主権の弱体化を意味するものではない。
さらに重要なのは、少なくとも1970年代初頭に至るまで、中国(中華人民共和国)も台湾(中華民国)も、尖閣諸島について公式の主権主張を前面に掲げてこなかったという点である。
その間、中国・台湾側の公式文書(外交部作成の文書も含む)、地図、学術資料の多くにおいて、尖閣諸島は沖縄(琉球)諸島の一部、すなわち日本領として扱われてきた。
これらの資料は、日本側が一方的に主張してきたものではなく、相手側自身が長期間にわたり日本領であることを黙示的に認めてきた証拠として重い意味を持つ。また、日清戦争後に結ばれた下関条約(1895年)において、清国から日本に割譲された島嶼リストにも尖閣諸島は含まれていない。
尖閣が台湾の「付属島嶼」であるとする後年の中国側の主張は、歴史的にも法的にも根拠を欠くことを意味している。
国際法上の領有要件に照らせば、この点について結論は明確である。ここで見落としてはならないのが、戦後における米国の立場の変化がもたらした政治的含意である。戦後の一時期、米国は尖閣諸島に対する日本の“潜在的主権”を認める趣旨の整理がなされていた。
ところが、沖縄返還を前に、米国は尖閣について主権の帰属判断を回避し、「主権問題について立場をとらない」「いずれの領有権主張も支持しない」という姿勢に転じたのである。米国は一貫して「施政権の返還」であり「主権の判断は留保する」という立場を取ったが、この“中立的立場”が結果として、中国/台湾側の主張を勢いづけ、日本側の戦略的判断を曖昧にさせる要因となった。
他方で、1972年の沖縄返還により施政権が日本に戻ったことを前提に、日米安保条約第5条の適用について「日本の施政下にある地域に義務が及ぶ」という整理によって説明している。
日本の主権の正当性が揺らいだわけではないが、同盟国が主権判断を避ける構図が続く以上、日本は施政の実態を確実に維持するための能力と運用を積み上げ、現状変更を許さない抑止を一層確実にしていく必要がある。
にもかかわらず、歴代日本政府は政権が替わるたびに、力または威圧による一方的な現状変更を許さないという日米の意思を示すべく、米国から「第5条適用」の言質をとること自体に満足しがちであり、その先――尖閣領有権に関する日本の立場(主権)への理解と支持を得る――という肝心の作業が十分に体系化されてこなかった。
以上の経緯を踏まえれば、尖閣諸島に対する日本の領有権に瑕疵(かし)がある余地はまったくない。問題は領有の正当性にあるのではなく、この明確な正当性を、なぜ日本政府が戦略として活用してこなかったかにこそある。
逆説的だが、法的に強い立場にあるときほど、政治の運用ミスは致命傷になりやすい。尖閣に関する日本の法的地位は明確である。だからこそ本来、政治は“余計な論点”を作らず、その優位を静かに固定化していくべきだった。しかし日本外交は、節目ごとに不用意な言動と沈黙を重ね、相手に「棚上げ」という誤解を抱かせる余地を与えてしまった。
中国(中華人民共和国)および台湾(中華民国)が尖閣諸島に対する領有権を主張し始めたのは、1970年代初頭である。転機となったのは、1968年秋のECAFE(国連アジア極東経済委員会)による調査・研究と、翌69年に公表された報告書である。尖閣周辺海域に石油・天然ガスが埋蔵されている可能性が指摘されたことを受け、同地域の戦略的価値が急浮上したのだ。
これを背景に、1971年6月に台湾が最初に領有権を主張し、続いて同年12月に中国も同様の主張を開始した。いずれも、沖縄返還(1972年)を強く意識した動きであった。中国・台湾は、尖閣諸島を台湾の「付属島嶼」あるいは「古来中国の領土」と位置づけ、明・清代の航海記録や地理認識を根拠として挙げている。
だが、これらは航路上の目標物としての記載にとどまり、国際法上の領有意思や実効支配を示すものではなく、後発的な政治的主張でしかなかった。ところが、日本外交は、この明確な法的地位を戦略的優位として活用してこなかった。
象徴的なのが、1972年の日中国交正常化である。この際、田中角栄首相自らが尖閣問題に言及し、本来存在しなかった「問題」を周恩来との話題の俎上に載せてしまった。周恩来は「今は話したくない」と述べたと伝えられており、その場では事態は大きく展開しなかった。しかし、日本側からあえて尖閣を持ち出したこと自体が、後年にまで尾を引く戦略ミスであった。
また、1978年の日中平和友好条約締結時にも、日本側は同様の過ちを繰り返した。訪日した鄧小平は記者会見の場で、「この問題は次の世代の叡智に任せればよい」と発言したが、福田赳夫(たけお)首相・園田直(すなお)外相らはいずれも、これに対して事後に特段の異議を唱えなかった。
この沈黙は、日本国内では「大人の対応」と評価されたかもしれないが、中国側や国際社会の視点から見れば、日本が主権問題の棚上げを事実上黙認したとの誤った印象を与えかねないものだった。
この延長線上に位置づけられるのが、1992年の中国による領海法制定である。中国はこの国内法において、尖閣諸島を含む形で自国の領海を明記し、従来の曖昧な主張を制度として固定化した。
これは、尖閣をめぐる中国の立場が「言説」から「制度」へと転換した決定的な節目であった。しかし、日本政府はこの時も、天皇陛下訪中の調整過程にあったこともあり、抗議を行いつつも、事態の管理を優先する姿勢を取った。
天安門事件後における両国の対応の違い――主権主張を制度として固定化する中国と、それに対し明確な戦略的対応を欠いた日本――は、両国の戦略的非対称性を象徴している。
尖閣問題をめぐる現場レベルでの対応もまた、戦略の不在を露呈してきた。2000年代半ばまでは、尖閣周辺で目立った動きを見せていたのは、主として香港や台湾の民間活動家であった。ところが、中国の経済力と海警・海監などの海上執行機関が強化されるにつれ、事態は質的に変化する。
2008年6月には台湾の公船が、同年12月には中国の公船が、尖閣諸島周辺で公然と領海侵入を行った。これは明確なエスカレーションであったが、日本は外交上の抗議以外に有効な手立てを講じることができなかった。
海上保安庁の予算増額や巡視船の増強が本格化したのは、中国側がすでに体制を拡充し始めた後であり、現在に至るまで量的・質的に追いついていない。
さらに2010年の中国漁船衝突事件では、民主党・菅直人政権は公務執行妨害で中国側船長を逮捕・拘束したにもかかわらず、その後の中国側の強い反発を受け、主権を守るよりも、目先の危機沈静化を優先し、那覇地検による事実上の「船長釈放」を促した。
これは、国内法と主権の原則を自ら後退させた、戦後日本外交史に残る重大な失策であった。
2012年のいわゆる尖閣「国有化」問題においても、民主党・野田佳彦政権は情報管理を含め、稚拙な対応に終始した。この事案の嚆矢(こうし)となったのは、石原慎太郎東京都知事による尖閣購入構想であったが、これは結果として、事態の悪化を招くこととなった。
石原都知事の政治的意図は理解できるとしても、外交的反作用まで織り込んだ国家戦略としては拙いと言わざるを得ない。石原都知事が主張するような対応(たとえば公務員の常駐や灯台や船泊の整備など)は、政府がはるか以前に、静かに、計画的に行うべきであった。
加えて深刻なのは、尖閣を含む主権・領土問題に関する教育と社会的認識の欠如である。政治家ですら、基本的事実を正確に理解していない例は少なくない。
国として主権を体系的に発信する拠点である「領土・主権展示館」が開設されたのは、2018年になってからであり、国家としての対応があまりに遅すぎたと言わざるを得ない。
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(前駐中国日本国特命全権大使、立命館大学教授 垂 秀夫)