壮絶…奇跡的に生還したパイロットが「墜落した瞬間に思ったこと」 戦時下のおぞましい記憶

第二次大戦以降、戦争の主役となり、最前線で戦う航空機の搭乗員たちにとって、敵機からの銃撃や対空砲火によって撃墜されること、あるいは機の不良などによって墜落することは、そのまま死を意味した。
ところが、ごく稀に、この絶体絶命の状況から奇跡的に生還するケースがあった。撃墜され戦死して行った九割九分の搭乗員たちと、生還した彼らを分けたものは何だったのか。そして、彼らがのぞいた死の淵の風景とはどのようなものだったのだろうか。

「敵機が、下から撃ち上げてきました。曳痕弾が飛んでくるのがはっきり見えたけど避けようがない。カンカンカン、と機銃弾が命中する音が聞こえ、『やられた!』と思ったとたん、煙とガソリンが操縦席に噴き出してきて、次の瞬間、バン!と爆発しました。炎で目も開けていられないし、息もできない。顔に吹きつける炎を避けようと機体を横滑りさせてみたけど、全然効果はなかった。しかし、生きる本能でしょうかね、目も見えないのに、もう海面だ!と思ってエンジンのスイッチを切り、機首を引き上げたところがドンピシャリ、海面でした」
と語るのは、元零戦搭乗員・小町定さん(飛曹長/1920-2012。戦後、ビル経営)である。小町さんは、昭和13(1938)年、水兵として海軍に入り、部内選抜の操縦練習生を経て戦闘機パイロットになった。空母「翔鶴」に乗組み、真珠湾作戦やインド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加、さらにラバウルやトラック島上空の邀撃戦をくぐり抜けてきた歴戦の搭乗員だった。
小町定さん。歴戦の搭乗員だったが、グアム島上空でグラマンF6Fに撃墜された(右写真撮影/神立尚紀)
昭和19(1944)年6月15日、サイパン島に米軍が上陸を開始、6月19日、岡本晴年少佐率いる第二五三海軍航空隊の零戦13機がトラックの竹島基地を発進してサイパン攻撃に向かう。小町さんはそのなかの1機として出撃していた。
トラックからサイパンまでは約600浬(約1100キロ)。航続距離の長い零戦でも、空戦を前提とした無着陸の往復は無理である。発進して飛ぶこと3時間あまり、やがて海の向こうにグアム島が見えてきた。岡本少佐は、ここで燃料補給をしようと、高度を下げて編隊を解き、一列縦隊で着陸態勢に入った。
ところがそこはすでに米軍の制空権下にあり、約10機のグラマンF6F戦闘機が遊弋していたのである。情報が乏しく、零戦隊はそのことを知る由もなかったのだ。小町さんの回想――。
「高度500メートルで解散、一列縦隊になって、一番機・岡本少佐、二番機・栢木(かやき)一男中尉、三番機・私の順で着陸態勢に入りました。まず岡本機が無事着陸し、栢木機がまさに接地しようとしたところでグラマンが上空から襲ってきたんです。いま思えば、指揮官はどうして一回り、上空を警戒しなかったのか。
栢木中尉は左腕を機銃弾に撃ち抜かれて重傷を負いました。私の高度は100メートル足らず。完全に着陸態勢に入っていたので失速寸前の状態でした。急いで脚を上げ、フラップをおさめ、機銃の安全装置をはずして戦闘態勢に入りましたが、スピードは急には上がりません……」
被弾し火焔に包まれた小町機は、そのまま海面に突っ込んだ。生死を分けたのは、着水寸前、本能的に操縦桿を引き、浅い角度の不時着水に近い形での墜落になったからだった。
小町さんは、顔と手足に大火傷を負ったが奇跡的に助かり、数日後、迎えの一式陸攻に乗せられグアムを脱出、トラックに帰り、そこから病院船「氷川丸」で内地に送還された。この病院船は、現在、横浜・山下公園に係留されている「日本郵船氷川丸」である。
「顔も手足もベロンベロンで、ビフテキのレアぐらいには焼けていました。あんまり痛々しいから『氷川丸』の乗組員が同情してくれて、内地では砂糖がなくて困っているから家族に持って帰りなさい、と砂糖をどっさりくれました。それを土産に帰ったんですが、包帯をぐるぐる巻かれてミイラのような私の姿に、家内が卒倒するぐらいにびっくりして。でも喜んでくれましたよ」
戦争体験を持つ多くの元パイロットへインタビューを重ねてきたが、このように、乗機が撃墜され、あるいは墜落したときの話ができる人は多くない。言うまでもなく、乗っていた飛行機が墜ちるということは、大抵の場合、死に直結するからだ。生還した人は、一種の臨死体験をしたとも言えるが、生死を分けたのは果たして何だったのか。小町さんのように、ギリギリのところでの無意識の操縦操作で助かったと思われる例もあって、単に「運がよかった」の一言では片づけられないことのようである。
昭和15(1940)年9月13日、中華民国・重慶上空での零戦デビュー戦や、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃第二次発進部隊で零戦隊の指揮をとった進藤三郎さん(少佐/1911-2000。戦後、山口マツダ常務)は、戦場に出るまでの訓練中に三度の事故に見舞われている。

一度めは昭和10(1935)年11月、空中火災だった。
零戦のデビュー戦や真珠湾攻撃の制空隊指揮官を務めた進藤三郎さん(右写真撮影/神立尚紀)。幾度もの事故から奇跡的に生還した
「大村海軍航空隊で、機体の飛行時間200時間ごとに行われる定期分解手入終了後の試飛行のために離陸しました。飛行機は九〇式艦上戦闘機です。一通りのテストを行い、最後に背面上昇飛行を試みたら、突然、座席内がガソリン臭くなり、ガソリンのしぶきが顔にかかった。急いで機体を引き起こすと、足元から火焔が噴き出してきたんです。
はじめは冷静に、練習航空隊で習った消火方法をあれこれ試してみたものの、火勢はますます強くなるばかり。足から腕にまで火がついてそろそろ慌て出し……落下傘降下しようと下を見たら、ちょうど大村市街の上空だったので、ひとまず大村湾上空まで飛びました。それでようやく脱出しようとしたら、安全バンドが新式のに変っていて、航空手袋をしたままだと留め金が外せない。やむなく海上に不時着水を決意したんですが、もう操縦席は炎に包まれ飛行服も燃えていて、あまりの熱さに思わず『お父さん!』と叫びましたよ。
顔にかかる炎を避けようと機体を横すべりさせながら、猛烈なスピードのまま海面に突っこんで、気がついたときは海底に沈んでいました。バンドが外せないので、落ち着こうと一度海水を飲み、手袋を脱いでやっと留め金をはずして浮き上がることができました」
進藤さんは、ちょうど側で漁をしていた漁船に救助された。漁師の話では、燃えながら墜ちてきた飛行機が沈んでから、進藤さんが浮かんでくるまで1分半ほどだったという。後日、機体を引き揚げ調査したところ、火災の原因は、整備員が燃料タンクの蓋をきっちり閉めていなかったことだった。安全バンドの留め金の形状も、手袋をしたまま外せるよう、すぐに改良されることになった。
海中に墜落し、引き上げられる九〇式艦上戦闘機。このような事故はしばしば起こった
二度めの事故は、火傷も癒えた昭和11(1936)年2月27日のこと。この日、大村は吹雪だったが、夜には天候が回復したため、夜間の離着陸訓練が行われることになった。経験のない夜間飛行だから、飛行機は2人乗りの九〇式二号艦上偵察機で、後席には教員役としてベテランの戦闘機乗り・半田亘理一空曹が同乗した。
「すると、大村湾上空で突然、エンジンが停止しました。燃料切れと判断、燃料コックを切り換えたんですがエンジンはかからず、やむなく冷たい海面に不時着水。飛行機はしばらく浮かんでいて、尾翼の航空灯は点灯したままでした。半田一空曹にも怪我はなく、飛行機につかまりながら救助を待ちましたが、2月の海は耐えがたいほど冷たく、30分後、救助艇に助け上げられると同時に気を失いました。例によって飛行機は引き揚げられましたが、原因は、前日の分解手入のさい、燃料コックの目盛板が90度ずれて取りつけられていたためでした」
憧れて戦闘機乗りになったが、数ヵ月のうちに二度の大事故に遭い、2機の飛行機を壊したことで、進藤さんはしばらく飛行機に乗ることに恐怖を覚えたという。三度めの事故は、昭和11年5月のことだった。
「大村から沖縄への単独洋上航法訓練の帰途、鬼界ヶ島に不時着する訓練が行われたんですが、未完成の飛行場で不整地に機首を突っ込んでしまい、逆立ち状態になってプロペラを曲げてしまいました。しかし、三度めの正直というのか、これでなんだか厄払いができた気がして、以後はまた飛行機に乗るのが楽しくなりましたね」
――後日談になるが、このときから60年後の平成8(1996)年8月、私は、進藤さんの海軍兵学校六十期のクラスメート・鈴木實さん(中佐/1910-2001・戦後、キングレコード常務)の紹介を得て、広島の進藤邸を訪ねた。
ほんとうはもっと早い時期に紹介されていたのだが、その年の春、当時84歳の進藤さんから鈴木さんへ、
「すまん、庭の柿の木に登って手入れをしてたら枝が折れて落ちてしもうて、あちこち痛うて動けんのじゃ」
と断りの電話があり、回復の頃合いを見て、こんどは鈴木さんから電話をかけると、
「うちの敷地にマンホールがあってな。工事で蓋が開いてるのを忘れて穴に落ちて……。両腕が引っかかったんで助かったが、肩が痛うて」
といった具合に、延び延びになってしまったのだ。二度めの電話のとき、私は鈴木さんの横で電話のやりとりを聞いていたのだが、
「進藤、貴様は昔からよく落ちるなあ。もういい大人なんだから、気をつけて行動してくれよ」
と、鈴木さんが半ば呆れ、半ば心配したような声で話していたのを憶えている。
搭乗員の錯覚で、飛行機が墜落した例もあった。田中國義さん(少尉/1917-2011。戦後、自動車整備工場経営)は、「日本海軍一」とも称される操縦技倆をもつベテラン戦闘機乗りだったが、戦闘機の訓練部隊だった大分海軍航空隊で教員を務めていた昭和17(1942)年8月、のちに新鋭戦闘機「紫電改」の指揮官として名高くなる鴛淵(おしぶち)孝中尉(のち大尉、戦死後少佐)と一緒に落下傘降下したことがある。
「空戦技術は日本海軍随一」と謳われた田中國義さん。教員として同乗飛行中に、思わぬアクシデントで落下傘降下した(右写真撮影/神立尚紀)
「鴛淵中尉が訓練の教程を終えたあと、一時横須賀海軍航空隊に転勤して、また大分空の教官として戻ってきたんですよ。練習機では練習生は前席に、教員(下士官)、教官(士官)は後席に乗るんですが、彼はそれまで後席に乗ったことがないから、後席に乗る訓練をやったわけです。飛行機は、旧式の複葉機、九〇戦を複座にした九〇式練習戦闘機でした。
そしたら、宙返り反転をやろうとしたとき、背面錐もみに入っちゃった。彼も今日から教官だから、回復動作の手出しをせずに『あ、どうするかな』と思って見てたんです。すると、背面錐もみは通常の錐もみとは操作が逆、操縦桿を引かないといけないのに、ふつうの錐もみと勘違いしたのか、操縦桿を突っ込んでるんですよ。
これはいかんと思い、操縦桿に手を伸ばそうとした瞬間、遠心力でバンドが外れたのか切れたのか、そのまま機外に放り出されてしまいました。
鴛淵中尉は前席の私が飛び出したのを見て、もうだめだ、と思ったんでしょう。続いて脱出してしまいました。飛行機には異常がなかったんですがね……。
しかし、落下傘降下中は静かなもんでしたよ。ほんとうに静か。鴛淵中尉は私より低い高度で脱出したから、眼下に落下傘が開いているのが見えました。ところが、彼のほうからは自分の落下傘が邪魔になって、私が見えない。それで彼は、『田中を殺した、殺した』と自責の念にかられながら降りてきたようです。
降りたところは海の上でしたが、幸い、風が海から陸のほうに吹いていたので、そのままヨットのように、落下傘に引っ張られながら足が立つところまで着くことができました」
――教員、教官として、人に操縦を教えるのも命がけだったのだ。
戦争が始まれば、戦闘で喪われる飛行機は加速度的に増えてくる。敵機や敵の対空砲火に撃墜される例が多いのはもちろんだが、なかには味方撃ちの例も少なからずあった。

空母「蒼龍」零戦隊分隊長だった藤田怡與藏さん(少佐/1917-2006。戦後、日本航空機長)は、昭和17(1942)年6月5日、日米機動部隊が激突した「ミッドウェー海戦」で、来襲する敵機を邀撃中に、味方の対空砲火に撃墜されている。
「ミッドウェー島攻撃に向かう第一次攻撃隊が発艦するのを上空から見送った直後、モールス信号の無線電信で敵機来襲の報を聞き、指示された方角に、低空を飛んでくる双発のマーチンB-26多数を発見。追いかけたものの間に合わず、するとまた敵編隊来襲の報が入ったのでそちらの方角に向かって……」
藤田さんの目に、約20機の敵艦上爆撃機(急降下爆撃)が、5機ずつの編隊を、4段の梯型に組んで飛んでくるのが見えた。周囲を見渡すと、これを攻撃できそうな位置にいる零戦は藤田機しかいない。
藤田怡與藏さん。ミッドウェー海戦で、味方の対空砲火に撃墜され、海面を漂流した。戦後は日航に入り、日本人初のジャンボ機機長となる(右写真撮影/神立尚紀)
「私1機でこいつらに爆撃させないためにはどうしたらいいか考えました。そうだ、敵は斜め後ろ下がりの梯型で来てるんだから、それを、敵が一線に見える斜め上方から攻撃して弾幕をつくれば、相当数撃墜できるんじゃないかと。そう思いついて私は、機銃の発射レバーを握って遮二無二突っ込んでいった。一撃後、振り返ってみると、はたして2機が煙を吐いて編隊から脱落してゆく。同様に何度か攻撃を繰り返し、敵機が約半数になったところで味方の零戦隊も加わって、急降下爆撃に入れた敵機は3機だけでした。これも私が針路を妨害したせいか、味方艦隊への命中弾は1発もなし。ホッとしましたね」
敵機の来襲は切れ目なく続く。藤田さんは、アメリカ軍パイロットたちの勇敢さに内心、舌を巻いた。次に来たのは雷撃(魚雷攻撃)機。これも約20機が、先ほどの艦爆と同様の編隊を組んで飛んでいる。藤田さんはまたもや斜め上方から攻撃をかけ、駆け付けたほかの零戦とともにその大部分を撃墜した。雷撃に成功した敵機は3機のみ。だがこれらの魚雷も、味方空母の巧みな操艦で回避された。
「敵襲が一段落し、弾丸も撃ち尽くしたので着艦しました。艦橋で報告し、握り飯を待っていると、またもや敵襲。飛行甲板上に準備されていた零戦に急いで飛び乗りました。指示された方位に飛ぶと、敵はまたも雷撃機。先ほどと同じような編隊で、同様の攻撃をしているうちに残りは4機だけとなり、味方の零戦のほうが多くて空中接触の危険を感じたので、あとは仲間に任せようと、味方の母艦に腹(機体下面)を見せる形で旋回した。そこへ、『赤城』の方向から飛んできた機銃弾が、私の機体に命中したんです。
カン、という音が足元でしたと思ったら、白煙が出てきて、すぐにパッと火がつき操縦席に燃え広がった。胴体の燃料タンクに命中したんでしょう。炎除けに、絹のマフラーをひっぱり上げて顔を覆い、飛行帽の上に跳ね上げていた飛行眼鏡をかけ、不時着水しようと海面の場所を見定めているうちに、目の前にある7.7ミリ機銃の機銃弾倉に火がまわって、銃弾がパチパチ弾けだした。自分の機銃弾に当たったんじゃつまらないと思い、落下傘降下を決意して、ふたたび高度を上げて見ると、眼下に軽巡『長良』がいる。よし、ここで飛び降りようと、風防を開けバンドを外して身を乗り出したんですが、風圧で体が後ろに押しつけられて脱出できない。それで、両足を風防の上縁にかけ、のけぞって機体の横に転がり出ました」
脱出のとき、高度計をチラッと見ると200メートルを切っていた。落ちてゆく途中、ヒューヒューと風を切る音は聞こえるが、落下傘はヒョロヒョロ伸びるばかりで開かない。風をはらまないのだと直感した藤田さんは、傘体を両手でつかんで思い切り振ってみた。とたんに大きなショックを感じ、落下傘が開いたと思った次の瞬間には海面に叩きつけられた。言葉にすると長いが、ほんの数秒の出来事である。
「海に落ちてから落下傘を外そうとしましたが、水中ではこんな単純な作業も手間取るもので、海中で体を回転させて、苦労してようやく外しました。海面に顔を出して周囲を見渡すと、頼みの『長良』は全速力で横を通り過ぎて行ってしまう。波は高くないがうねりがあって、底に沈んだときは四方は海の壁みたいだし、頂上では周囲が一望にできて、その差10メートルはあるように感じました。うねりに持ち上げられたとき、水平線の彼方に三筋の黒煙が見える。その付近にわが艦隊がいるにちがいないと思い、その方向をめざして泳ぎはじめました」
藤田さんには知る由もなかったが、遠望した黒煙は、被弾した空母「赤城」「加賀」「蒼龍」から立ち上るものだった。藤田さんが味方対空砲火に撃墜され、落下傘降下した直後、零戦隊が低空の敵雷撃機に気を取られている隙に、上空から断雲を縫うように急降下してきた敵艦爆の投下した爆弾が、3隻の空母に次々と命中したのだ。
海上を漂流している藤田さんには、味方艦隊にいま何が起きているのかわからない。ライフジャケットをつけているので浮力はあるが、泳いでいるうち、身につけているものが海水を含んで重くなってくる。飛行帽、手袋、飛行靴と順に脱ぎ捨て、しまいには靴下まで邪魔になって脱ぎ捨てた。鱶(サメ)が気になったが、鱶は自分よりも長いものは襲わないと言われていたので、首に巻いていたマフラーをほどいて腰に結んで垂らす。ところが泳いでいるうち、海水が胸元から入って寒くなってきた。我慢できなくなり、垂らしたマフラーを手繰り寄せて、首に巻きなおす。
「鱶に食われたら仕方ないわい」
と諦めることにした。
しばらく泳いたが、味方の艦隊は一向に近くならない。藤田さんはじたばたするのをやめ、海面に大の字になって、暖をとるため手と足の先だけを水面から出した。
「何もすることがないので、自分の手を見て手相を勝手に判断したり、瞑想にひたっていましたが、空腹と疲労のせいか眠くなってきました。こんなウトウトした状態で死ねたら楽だな、などと考えているうち、ほんとうに眠ってしまったようです。
墜落して4~5時間も経ったかと思われる頃、なんだか周囲が騒がしくなったので目を覚ますと、なんと『赤城』が燃えながら約1000メートルのところにいる。まだスクリューが回っているのか、少しずつ動いていました。駆逐艦『野分』が『赤城』の警戒をしながら私のほうへ向かってくるので、これは助かったと思って泳いでいくと、『野分』の機銃が私を狙っている。首だけ出して泳いでいたら、遠目には日本人だかアメリカ人だか、見分けはつきませんからね。また味方に撃たれてはかなわんと思い、あわてて立ち泳ぎをしながら手旗信号で、『ワレソウリュウシカン』(われ『蒼龍』士官)とやったんです。
やがて銃口が上がったので安心して泳ぎつき、舷側から垂らしてくれた縄梯子を上って、ようやく甲板にたどりつきました。気が緩んだためか、一時的に記憶喪失症のようになりました。だからいまでも、戦争中のことはどうしても思い出せないことが多いんです。――これは、歳のせいかもしれませんがね」
不時着水の例。昭和19年10月25日、比島沖海戦で還るべき空母を失い、海上に不時着水する零戦と、救助に向かうカッター(1)。この機の搭乗員は南義美少尉と言われている
不時着水の例。昭和19年10月25日、比島沖海戦で還るべき空母を失い、海上に不時着水する零戦と、救助に向かうカッター(2)。
藤田さんと同じく空母「蒼龍」零戦隊の生き残りで、燃料が尽きて不時着水、海面を4時間漂流の末、駆逐艦「巻雲」に救助された原田要さん(中尉/1916-2016。戦後、幼稚園経営)によると、漂流中、同僚の高島武雄二飛曹が、生きる望みを失ったものか、持っていた拳銃で自らの頭を撃ち抜き、自決したという。還るべき母艦を失い、戦場の海をあてどもなく漂流する不安は、想像を絶するほどのものであったのだ。
この海戦で、日本側は主力空母4隻のすべて、すなわち「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」と飛行機280機を失い、開戦以来初の大敗を喫した。
昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で敵機の攻撃を受ける空母「蒼龍」(米軍撮影)
ただし、ミッドウェー海戦での飛行機搭乗員の戦死者数を比べると、日本側121名(水上偵察機の11名を含む)に対し、アメリカ側は約210名と、倍近い差がある。空中の戦いに限って言えば、まだ日本側の方が優勢だった。
緒戦の頃こそ、米軍をはじめとする連合軍機に対し、優位を保っていた零戦だが、やがて機体強度の脆弱性などの弱点を見抜かれ、しだいに苦しい戦いを強いられるようになっていった。

零戦への対抗策として米軍が徹底したのが、高高度から急降下しての一撃離脱と、必ず2機が一組となって、1対1の格闘戦を避けることである。後者は、米海軍のジョン・サッチ少佐が考案した「サッチ・ウィーブ」と呼ばれる戦法(2機が互いにS字を描くように交差して飛ぶことで、襲ってくる零戦をもう1機が撃ち墜とす)がベースとなっているが、「サッチ・ウィーブ」自体は、あまりの難度の高さに米軍パイロット内でも否定する声が多い。しかし、つねに2機が連携を保って戦うだけでも、ともすれば単機で空戦を挑みがちな零戦に対して大きな強みを発揮した。
日本側も、こういった米軍の戦い方の変化に気づき、昭和18(1943)年半ばから一部の航空隊で、従来3機だった一個小隊の編成を、2機・2機の4機にする対策がとられている。
第二〇四海軍航空隊の一員として、激戦地ラバウルや、ソロモン諸島ブーゲンビル島のブイン基地を拠点に戦った渡辺秀夫さん(飛曹長/1920-2002、戦後福島市役所勤務)は、昭和18(1943)年8月26日、ブイン上空の邀撃戦で被弾、重傷を負い、墜落状態から奇跡的に生還した。
ブイン基地を離陸する、第二〇四海軍航空隊の零戦
「前上方から2機のグラマンF4Fが射撃をしながら突っ込んできました。すかさず1番機に反航射撃を加えると、敵はパッと上下に開いて逃げようとした。
セオリーからいうと、この場合、上に行った敵機を追撃するべきなんですが、下を見ると味方機が次々と上昇してくるし、下に行ったやつのほうが墜としやすいと考えて、まずは下にかわした敵一番機を追尾して一撃。するとそいつは、あっけなく火を噴いて墜ちてゆきました。
それで、もう1機の敵機とはまだ距離があるはずだが、そろそろ来るかな、と思いながら機首を引き起こして右後ろを振り返ったら、相手の飛行機を見ないまま、突然、バンバンッという大きな音がして、同時に目の前が真っ赤になり、爆風を受けたみたいに全身に激しいしびれを感じました。
痛みは全然感じない。それで、はじめは飛行機が燃えているのかと思って、脱出しなくてはと風防を開けようとしたんですが、体が言うことを聞かず、手に力が入らなくて開けることができない。そこで初めて、これは体に弾丸が入ったな、と。
天皇陛下万歳、なんて思わない。ただ、父母兄弟が、私がここで死ぬのがわかるかな、とチラッと考えました。すると、上昇の姿勢にあった飛行機がスピードを失い、機首をガクンと落として錐もみに入りました。あわてて操縦桿をとろうとしましたが、手足がまったく動かないんです。だんだん気が遠くなって、そのまま意識を失ってしまいました」
渡辺さんは1機を撃墜したものの、零戦1機に対して2機が一組となり、連携して戦う米軍の戦法、おそらく「サッチ・ウィーブ」の術中にはまったわけである。
「どれぐらい時間が過ぎたかはわかりませんが、気がついたときは錐もみは止まっていて、飛行機はものすごいスピードで降下しているところでした。
海面に激突か、それとも空中分解か、と思っていると、こんどは急上昇の姿勢になりました。飛行機は、きちんと調整さえされていれば、上昇、下降を繰り返しながらだんだん波がおさまって、放っておいてもまっすぐ飛ぶようになるんです。
依然として痛みは全然感じない。しかし、自分では怪我の状況はわかりません。ようやく手足が少し動くようになったので、飛行手袋をぬいでハンカチを取り出して顔を拭くと、しだいに左目が見えるようになってきました。被弾したときの高度は3000~4000メートル。気を失っているあいだ、どういう飛び方をしていたのかわかりませんが、海面を見ると、まだけっこう高度がありました。
計器板はひとつ残らずめちゃくちゃに壊れていて、首から下のシャツが血だらけになっていました。命中した敵弾は1発だけでしたが、それが風防で炸裂して、その弾片をくらったんです。しかし、炸裂弾(命中すれば炸裂し、弾片をまき散らす)だからまだ助かった。徹甲弾(装甲を撃ち破るための弾丸)の直撃だと頭が吹っ飛んでしまいますからね。
上空を見ると、まだ敵味方が入り乱れて空戦の最中でした。
それで、よし、もう一度行こうと思ってスロットルを入れ、操縦桿を引いたんですが、そうすると気を失ってしまう。何度かやってっみたけど、どうしても操縦桿を引くことができないんです。それで、これでは戦闘はできないとあきらめて、基地に向かって反転しました。帰ろうと思ったら急に気分が悪くなってきて、食べたものを何度も戻してしまいました。ずいぶん吐いたと思います。
それから20~30分は飛んだと思うんですが、とにかく飛行機をもって帰ろう、基地に帰ってから死のう、それだけでした。頭痛がひどく、出血多量のせいか、ときどき気が遠くなってしまい、上昇と下降を繰り返しながらようやくブイン上空にたどりつきました。
戻ってみると、爆撃で穴だらけになった滑走路上で、設営隊の数台のトラックが、穴埋め用の土を運んでいるのが見えました。低空すれすれを飛んで、風防を開けて手でどけろ、という合図をして、みんなを滑走路からどかせて、決められた誘導コースよりも低空で飛行場にすべり込み、一発でうまく着陸できました」
墜落状態にあった零戦を驚異的な生命力で立て直し、着陸させた渡辺さんは、戦闘指揮所前まで飛行機を滑走させ、エンジンを停止させると、それきり気を失った。
渡辺さんの傷はすさまじく、炸裂弾の破片で、右顔面の目から鼻にかけての骨と肉が吹き飛ばされ、しかも顔面には無数の弾片が刺さっていた。この日、渡辺機が着陸したときの模様を、同じ部隊の零戦搭乗員・中村佳雄さん(飛曹長/1923-2012。戦後、造材業)が記憶している。
「搭乗員が降りてこないので、これはやられたなと思って駆け寄ると、渡辺さんが2~3人の整備員にかかえられて、飛び出した右眼球を手で押さえながら血だらけの姿で降りてきて、あまりの大怪我に思わず息を呑みました」
渡辺さんは8月30日、この方面の海軍の最高指揮官である南東方面艦隊司令長官・草鹿仁一中将より、「武功抜群」と記した白鞘の日本刀を授与され、9月13日、病院船「天應丸」に転院、そのまま内地に送還された。
渡辺秀夫さん。激戦地・ブイン基地上空の空戦で、顔面に弾片を浴びる重傷を負い、墜落状態から奇跡的に生還した(右写真撮影/神立尚紀)
東京の軍医学校で弾片の除去手術を受け、次いで傷の治療、それから整形手術。右眼窩から頬にかけて、顔の砕けた骨をとる。そして、胸の肉を幅5センチ、長さ20センチの短冊状に、短辺の上部を残して切り取り、切ったほうを持ち上げて首に縫合する。これは、切った肉に血を通わせるための処置である。首につけた部分がなじんだ頃を見計らって、胸に残っていた短辺を切り、それをまた持ち上げて頬に縫合する。この部分が頬になじめば、首につけた部分を切って、頬に縫合する。こうして、胸から切り取った肉を、血流を絶やさずに首を経由して移植する、手間と時間のかかる復元手術だった。
「戦争中は、こういった症例が無数にありますから、整形の技術は進んでたんだと思います。なくなった眉をつけるのには、傷のある場所を避けて少し位置がずれてしまいましたが、頭の皮膚を移植しました。はじめは毛髪と同じ毛が生えてきますが、その場所になじんでくると、だんだん眉毛のようになります。右眼は義眼になりました」
話が手術におよんだとき、渡辺さんが、
「だからいまでも、私の顔の右半分には骨がないんですよ」
と言った。
「さわってみますか?」
おそるおそる、手を右頬骨のあるべきところに触れてみると、確かに骨の感触がなかった。右眼窩から鼻、頬骨にかけての骨が吹き飛ばされても、この人は健康に生きていて、いま、不自由なく会話を交わしている。そのことが、奇跡のように思えた。
戦争はいよいよ最終局面を迎える。昭和20(1945)年4月に沖縄戦が始まり、最前線となった九州からは連日、多くの陸海軍機が沖縄沖の敵艦船攻撃に出撃していった。

4月29日、沖縄に向け、鹿児島基地を発進した、戦闘第三一二飛行隊長・城ノ下盛二大尉搭乗の零戦が、離陸直後にエンジントラブルを起こし、近くの川に不時着水した。隊員たちが救助に駆けつけると、浅い川底に、零戦が原形を保ったまま沈んでいた。離陸直後だったので、風防も開いたままである。ところが城ノ下大尉は、操縦席から脱出できずに溺死していた。飛行帽から電信機につながるコードが外れなかったのだ。この事故を受けて、コードの途中にコネクターをつけ、引っ張れば簡単に外れるよう、大急ぎで改修が行われたという。
離陸直後のエンジントラブルで浅い川に不時着したが、無線のコードが外れず不幸にも溺死した城ノ下盛二大尉(写真は海軍兵学校生徒時代)
その直後、5月のある日、戦闘第三〇三飛行隊の大石治さん(上飛曹/1926-2015)は、鹿児島上空でグラマンF6F戦闘機と空戦、1機を撃墜した直後にもう1機に撃たれ、浅い角度で海面に突入した。
「墜落の衝撃で目の前にある照準器に顔をぶつけましたが、幸い気を失うこともないまま、私の零戦は海中に沈んでいきました。墜ちる直前、脱出しようと風防を開けたけど、それが着水のはずみに閉まってしまい、操縦席に閉じ込められた状態で沈んだんです。海底で安全バンドを外し、無線コードを外し、風防を開けようとするけども水圧で開かない。そうこうしている間にも海水がどんどん機内に入ってくる。そこで、これは操縦席のなかが海水で満たされれば、中と外との水圧差がなくなって風防が開くはずだ、と思って、水がいっぱいになるのを待った。そしたら、思ったように風防が開けられたんです。そのまま、救命胴衣の浮力で海面に浮きあがりました」
大石治さん。撃墜され、零戦とともに海に沈んだが、冷静な判断で脱出に成功、生還した。城ノ下大尉の犠牲が教訓になり、無線コードが簡単に外れるよう改良されていたのも功を奏した
大石さんは当時19歳になったばかりの少年だったが、墜落、海没し、機内に海水が入ってきてもパニックにならず、冷静な判断で脱出することができたのだ。無線コードが簡単に外れたのも、城ノ下大尉の犠牲が遺した教訓があればこそだった。
「墜落」から生還した人たちに共通するのは、体で覚え込んだ熟練の技からくる無意識の操作と、最後の瞬間まであきらめない執念ともいえる精神力、そして冷静な判断力だ。それらが合わさって「生」を呼び込んだと言っても差し支えないだろう。しかし、それらが全て備わっていたとしても、命を落とした人の方が圧倒的に多いはずだから、詰まるところは「運命」ということになるのだろうか。
ミッドウェー海戦で味方撃ちに遭い、海を漂流した藤田怡與藏さんは言う。
「幾度となく死に直面して奇跡的に切り抜けてくると、自分なりの死生観ができてきました。自分の上に、人間を超越した何か大きな力のようなものがあり、われわれはこの力の指令によって生きたり死んだりする。ある人はこれを運命と呼び、宗教家はこれを神といい、仏と称していますが、私は早くに失った両親の霊であると信じてきました。危機に直面したとき、生死は父母の霊に任せ、冷静に最後まであきらめずに最善を尽くす。これが私の信念といえば信念ですね」
冷静に最後まであきらめずに最善を尽くす。――これは事故、災害を問わず、どんなときにも、万が一生命の危機に直面したさいに備えて、心に留めておきたい言葉である。

3度の墜落を経験した進藤三郎さん他、6人の零戦搭乗員の証言を収録。

味方の銃弾で撃墜された経験をもつ藤田怡與藏さん他、7人の零戦搭乗員の証言を収録。