妊娠発覚から夫婦関係が変質していった32歳女性の「決断」とは…(写真:naka/PIXTA)
人生は、思い描いていたとおりに進むとは限らない。予測もつかないタイミングで子どもを授かったり、1度は愛を誓い合った相手から思わぬ形で裏切られたり。「まさか」と思うような人生の落とし穴は、そこかしこに転がっている。
とくに子どもがいるうえでの離婚は想像以上に過酷であり、その後の人生をどう生きるか、いやが応でも何らかの「選択」を迫られることになる。大人同士の事情で生じた生活の変化から、いかにして子どもたちを守っていけばいいのか。そのうえで自分自身の幸せをどう再構築するか。
「離婚にあたっては、最後の最後まで本当に悩みました。だって私は息子の親だから。息子にとっては、お母さんとお父さんは私たちしかいないんだから、って。ひたすら耐えろ、耐えろ、と必死で自分に言い聞かせていました。本当は今でも、離婚という選択が正しかったかどうかわからなくなる時があるんです」
ストレートな気持ちを語ってくれたのは緒方恵子さん(仮名、32歳)。精神を病み、ともに結婚生活を送ることが難しくなってしまった夫との離婚を、激しい葛藤の末に選択した。
恵子さんの転勤先だった東北と、夫の住む東京での遠距離恋愛を順調に育み、東日本大震災を乗り越えて結婚に至った順風満帆だったはずの2人に何が起こったのか。出会いから離婚までを追った。
恵子さんと夫が出会ったのは2008年。大手メディア企業の内定者研修だった。恵子さんは親会社の営業職の正社員として、3歳上の夫はコンテンツ制作を担う関連会社の社員として採用された。研修を通して親しくなり、やがて交際に発展。
「私は採用の段階で、すでに全国転勤になることが決まっていました。入社後に言い渡された勤務地は、東北地方の大都市。もともと働く場所にこだわりがなく、恋愛に関してもある程度の距離感を大切にしたい私と、そんな自由さを理解してくれる夫でしたから、遠距離恋愛を始めることになったんです。夫が月に2回ほど会いに来てくれるなど、交際はとても順調でしたね」
そして約2年後の2010年秋、晴れて入籍。変わらず東北と東京での別居婚、週末婚となったが、けんかもしないほど良好な関係が続いていた。恵子さんの仕事も乗りに乗っていた。顧客を20社ほど抱え、100万円規模の案件を次々と受注していく。
寝る時間もないほどハードな生活が続いたが、夢中になるあまり大して苦には感じなかったという。しかし2年後、今度は福島への転勤が決定。
「福島は営業拠点が広範囲に点在しているんです。車で何時間もかけて営業回りをしなくてはならなくて、それまでとは違った意味でハードでした。頑張りすぎて、そろそろ気力も体力も限界かも……。そう思っていた矢先に東日本大震災が起こったんです」
営業回りの車中で被災した恵子さんは、被害の大きかった浜通り方面へ向かう最中だった。実際に揺れの大きさはそれほど体感しなかったものの、目の前をゴロゴロと転がっていくトラックのタイヤ、道路に散乱する屋根瓦を見て「ただごとではない」と悟ったという。そのままひとまず市内のホテルに1泊した。
「翌日テレビで原発事故を知りました。このまま福島にいるわけにはいかない、と直感しましたね。営業所が一時閉鎖になるということもあり、福島支社の仲間とともに東京へ向かうことを決断。大渋滞の中18時間かけて東京へ向かい、そのまま東京で実家暮らしをしていた夫の元に身を寄せることになりました」
夫の家族とも良好な関係を築きながら半年間、東京本社で勤務をしたのち、恵子さんは再度、福島へ。しかし原因不明の体調不良に見舞われ病院を転々としていた矢先、妊娠が発覚した。夫婦にとって、まったくの想定外な出来事だったという。
「今思えば入籍から3年も経っていましたし、子どもができても不思議はなかったんですけどね。ただ、どこかでひとごとのように思っていたんです。家族計画もまったくしていなくて、婦人科に同行してくれていた夫と2人、途方に暮れながら診断結果を聞いたことをよく覚えています」
呆然としながら婦人科を出たところで夫が放ったのは「子ども、堕ろそうか」というショッキングな一言だった。「僕にはまだ父親になる資格はない」と落胆する夫の話を聞いているうちに、それまで見えてこなかった夫の葛藤があぶり出された。
「夫の父親は大手企業の役員を務めていたんですが、夫は父親の中に、“父とはこうあるべきだ”という理想像を持っていたみたいなんです。それに対して、当時の彼の収入は250万円。親会社と関連会社ということもあり、私と200万円の年収の差がついていました。そこに、夫のコンプレックスが隠されていたことに、当時の私はなかなか気づけなかったんです」
話し合いを重ねた結果、子どもはやはり産もう、という結論に達した。恵子さんもそれを機に東京本社への異動届けを出し、2012年には帰京、家族3人で暮らせるアパートを借りた。仕事内容も、激務の営業職から、比較的ゆとりを持てる内勤の職に変わることになった。そしてその年の秋に無事出産。夫も満面の笑顔で祝福し、家事・育児にも積極的に参加してくれた。1年半の育休後、恵子さんは営業職へ復帰。
「時短で働くようになった途端、仕事の効率が格段によくなって。みるみる評価も上がり、チームリーダーを任せられるようになったんです。改めて『仕事、楽しいなあ』と実感していました。そんなタイミングで、夫は仕事の低迷期に突入していきました。同期の出世、上がらない給料……。深夜の2時、3時まで残業して、自分を追い込んでいるようにも見えました」
平日と休日の落差は激しく、仕事のない日は1日中パズルゲームに没頭。恵子さんとのコミュニケーションは一気に減り、育児にも携わらなくなっていった。恵子さんが不満を漏らすと、「自分の出世が遅れたのは育児を手伝わされたせいだ」と言い放つ。イライラして子どもを過剰に怒鳴りつけたり、運転中の暴言も激しくなったりと、その乱暴さは目に余るようになった。
「言動がみるみるモラハラ気味になっていきました。よく聞いていると、私が仕事にやりがいを見出していることに対する嫉妬が根底にあるんじゃないか、と気づきました。私の残業に対しても、『営業職なんていくらでも代わりがきく仕事なんだから早く帰宅しろ、自分の担っている制作の仕事は替えが効かない大事な仕事なんだ』とマウントを取るようになって。
どこで怒りのスイッチが入るのかわからないので、仕事の話どころかコミュニケーション自体にビクビクしながら過ごすようになっていました」
家事、育児を一手に担い、そのために仕事を無理やり調整する日々。恵子さんの日々は過酷なものになっていった。それでも、家族であることには変わりはない。ひたすら耐えに耐えた。子どもが4歳になったある日、夫から驚きの発言が飛び出す。
「離婚したいと言われました。心療内科へ行ってきた、と言うんです。そこで、不調の原因は結婚生活にあるから別れたほうがいいと言われた、と。結局自分の頭ではもう何も考えることができなくなってしまったんだな、と悲しくなりましたね。だからと言って、簡単に承諾する気にはなれませんでしたが」
その後、何とか夫を説得して、話し合いの場を何度か設けた。その場では「子どももいるんだし、2人でやっていこう」という結論が一応は出るものの、数日経つと夫は元どおりモラハラ状態へと戻ってしまう。恵子さんが別居を決意したのは、夫の「子どもの事が嫌いになった」という発言がきっかけだった。
「もう取り返しがつかないなところまできているな、と。ちょうど子どもの通っていた保育園が閉鎖になり、都内の系列の園へ転園できるというタイミングでもあったので、私と子どもで家を出ることに決めました。そして同時に、私のフルローンで中古のマンションを購入したんです。いずれ夫が引っ越してきても一緒に住める間取りを選びました。
ただ、私の中にも『もう復縁は難しいかもしれない』という予感は正直あって……。このタイミングで家を購入したのも、離婚前のほうが審査に通りやすいのではないか、という計算があったのは否めません」
一か八かの賭けだった。別居から8カ月後、夫は2人の住むマンションへ引越してきた。ようやく3人で新しいスタートを切れるかもしれない……、そんな期待は2カ月と続かなかった。結局夫婦一緒に生活を始めると、夫が元に戻ってしまうのだ。
「その頃にはもう、『お互い、よくここまで耐えたよね』という感覚になっていたと記憶しています。何度も話し合って、何度もつまずいて……。限界までやりきった、と。離婚を決断する頃には、私の気持ちも夫から離れつつありました」
離婚にあたっては、公正証書を作成することになった。夫は無気力だったため、すべての項目は恵子さんが1人で決めたという。内容は、「親権は母親が持つ」「夫が40万円の慰謝料と月4万円の養育費の支払い義務を負う」というものだ。養育費については、収入の低い夫に本来支払い義務はなかったものの、夫の言い値で構わないので検討してほしいと恵子さんは考えていた。
「生活のためではありません。将来子どもに、『あなたのことはパパとママ、2人で育てたんだよ』と言いたかった。誕生日やクリスマスのプレゼントも、パパとママからの贈り物だということにしたかったんです。だから5千円でも構わないから、子どもが成人するまでは夫にお金を入れてほしかった」
取り決めに関してはほぼもめることはなかった。2017年の秋に協議離婚が成立。現在、恵子さんと小学校1年生になった息子は2人で生活を送っている。しかし今でも恵子さんは、この離婚が正解だったのか思い悩むときがあるという。
「私と夫が不仲になったちょうど3歳頃から、子どもの頭に10円ハゲができはじめました。それは今でも治っていません。学校でからかわれたりはしていないようですが、もし私がもう少し耐えることができていれば……と、今でも自分の決断が子どもにとって正解だったのかがわからないんです」
また離婚にあたっては、世代が上の人たちから“呪い”のような言葉をたくさんかけられた。
「『父親がいないとしつけがなっていない大人に育ってしまう』とか、『父親がいないから、そんなに甘えん坊な子どもになっちゃったんじゃないの?』とか。でもそういう呪いから逃げ切れないと、離婚って決断できないと思うんですよね。
きっと子どもには子どもの社会があって、私たち大人がどんなに気をまわしても踏み込めない世界があるはずで。父親不在というネガティブ要因だけに引っ張られるようにして離婚を諦めるとしたら……、やっぱりそれはそれで大人のエゴなのかもしれないな、と最近では少しずつ考えるようになりました」
冒頭でも記したが、夫婦2人のケースとは違い、子どもを持ったことで離婚へのハードルはぐっと高くなる。女性用掲示板サイトには、夫の愚痴や結婚生活の悩みを吐き出す専用のスレッドが日々立てられ、さまざまな夫婦間の問題が垣間見ることができる。それでも離れずに、「子どものため」という大義を掲げて何十年も添い遂げることを選択する夫婦もいる。
どちらが正しいかはわからない。ただ、恵子さんのリアルな言葉は、そんな夫婦生活を送っている人にとっても、ひとごととは思えないのではないだろうか。
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