【中井治郎】「迷惑な外国人」を攻撃…日本人の「観光客ぎらい」はなぜ進むのか 「観光される」国の本音

いまやテレビや雑誌で一つの人気ジャンルとなりつつある、外国人観光客の「マナー違反問題」。こうした状況に見られるように、日本社会には「観光客ぎらい」とでも呼ぶべき空気が蔓延しているが、なぜそうなってしまったのか。『パンクする京都 オーバーツーリズムと戦う観光都市』を上梓した社会学者の中井治郎氏が解説する。
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外国人観光客の「爆買い」が流行語に選ばれた2015年。45年ぶりに訪日外国人旅行者数(インバウンド)が出国日本人旅行者数を上回った。つまり、この時わが国は「観光する国」から「観光される国」へと逆転したのである。
そして、いまや観光立国・日本を象徴する世界的な観光都市となった京都市の調査では、外国人観光客の一人当たりの消費額は日本人観光客の2倍以上にもなるという。外国人観光客はとても効率の良い「上客」というわけである。
未曽有のインバウンド需要が見込まれる2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催を控えて、開催地である首都圏はもちろん低迷する地方経済の救世主としても、日本中が彼らの購買力に並々ならぬ期待を寄せているのはご存じの通りだ。
しかし、われわれは本当に彼らを歓迎しているのだろうか?

近年は外国人観光客の起こすトラブルに関する、いわゆる「迷惑な外国人観光客」の話題がメディアで取り上げられることが増えた。なかでも頻繁にメディアでとりあげられるようになったのが、トイレの使い方、ゴミのポイ捨て、歩きタバコ、飲食店や寺社でのふるまいなど種々のマナーに関するトラブルの話題である。
しかし実際に聞き取りを行っていると宿泊業や飲食業、また行政の現場などからは、「ここ数年でアジア系や中国系も含めて外国人観光客のマナーはかなり改善されています」というような声も多く聞かれる。
ただ同時に「でも、マナーは改善されていますよ“という話はなかなかテレビでは流してもらえないんですよね」とため息をつく関係者も多い。
このようなため息からは、「ほら、だから中国人はダメなんだよ」などとテレビやスマホの画面に向かって気軽に吐き捨てて視聴者が憂さ晴らしができるような鉄板ネタとして「迷惑な外国人観光客」のイメージが消費されている現実が透けて見える。つまり、「観光客ぎらい」という需要である。
それにしても、なぜ、われわれはそんなに観光客に苛立っているのだろうか。
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平成30年「京都観光総合調査」では外国人消費額の単価は日本人消費額の2.2倍とされている。つまり外国人観光客はとても効率の良い「上客」なのである。しかし、その一方で、これまで見てきたようなインバウンドへの反感や苛立ちの高まりも無視できない。彼らは「上客」なのか、「招かれざる客」なのか、どちらなのだろうか。
現在のインバウンド・ブームが到来する前、2003年に行われた内閣府の世論調査では「海外からの観光客が増えることをどう思うか」という問いに対して、「増えてほしい」(48.2%)が「増えてほしくない」(32.4%)を上回っている。
かなり積極的にインバウンド増加を歓迎している印象を抱くかもしれないが、そうとも言い切れない。「増えてほしくない」理由としては90.2%の人々が「犯罪の増加につながる心配」を挙げ、また「ビザ取得の免除や簡素化はすべきでない」が53%と、「免除・簡素化すべき」の31.2%を上回っていた。
さらに興味深い数字がある。「観光庁」が発足した2008年に総務省によって行われた「訪日外国人旅行者の受入れに関する調査」では、ホテル・旅館のじつに72.3%が「今後とも外国人旅行者を受け入れたくない」と回答しているのだ。
日本のインバウンド誘致は「官」主導であったといわれるが、これらのデータを見ると、インバウンドブームの前から、そもそも国民や「民」は外国人観光客の受け入れに前向きとはいえなかったことがよく分かる。とくに実際に最前線で外国人観光客を受け入れることになる宿泊業界は及び腰であった。
そんな日本社会だが、出口の見えない「失われた20年」やリーマンショックによる消費の冷え込みなどによって、「背に腹は代えられぬ」と渋々「救世主」として外国人観光客を受け入れることになったというのが本音…といったところだろう。
しかしインバウンドが「救世主」としてもてはやされる一方で、日本にこれだけの外国人が訪れること自体がこの国が経験するのははじめての事態である。それに対する社会的な合意の形成は十分であったとはとてもいえず、そのことも社会にストレスや不安、彼らへの反感をもたらすことになった要因だろう。

もっとも、日本以外の国でも、外国人観光客の受け入れへの拒否感が示される例は散見される。いまバルセロナやアムステルダムなど世界的な観光都市では「オーバーツーリズム」が深刻化し、生活環境を脅かされている市民による反観光運動が問題化している。
観光客を受け入れるということは、その地域のインフラや空間、有形無形の文化など、さまざまな資源を彼らと共有することで、対価を得るということでもある。しかし、観光客の受け入れが地域のキャパシティを越えて「オーバーツーリズム」の状態となったとき、そのバランスが崩れる。地域の人々は、自分が欲しかった商品を、快適で安心な生活環境を、思い出の場所を、「彼らに奪われた」という感覚を持つようになるのだ。
彼らは叫ぶ。「観光客は帰れ」「もう観光はごめんだ」と。
そもそも外国人観光客への忌避感があったところに、オーバーツーリズム気味となれば、たしかに「観光客ぎらい」になってしまうのも理解はできる。加えて、実はほかにも「観光客ぎらい」をドライブする要因がある。それは「不公平感」だ。どういうことだろうか。
京都の花街・祇園甲部では10月25日から、私道の撮影禁止を知らせる看板が設置された。この界隈はじつはほとんど私有地であり、メインストリート以外の路地の多くが私道である。そこを撮影禁止にするのだという。
祇園〔PHOTO〕iStock

花街・祇園を訪れる観光客にとってその風情のある街並みを撮影するというのはいちばんの目的である。それを制限しようというわけである。地元関係者に話を聞くと、その目的は「もう観光客が来なくなるように」だという。
「他のところは観光客に来てほしいけどマナーは守ってほしいと思っているかもしれませんが、ここはちがいます。そもそも観光客に来てほしくないのです」
カメラで撮影しながら付きまとう、腕をつかむ、着物を引っ張るなど、最近、全国メディアでもセンセーショナルに取り上げられる機会が増えた、花街の舞妓・芸妓へ「狼藉」を働く外国人観光客。いわゆる「舞妓パパラッチ」問題である。
なかには着物を破る、襟元に火のついた煙草を投げ入れられるなど、刑事事件となったものさえあり、この街に外国人観光客が押し寄せるようになったここ数年来、深刻な事態が続いている。しかし、問題はそのようなマナー違反だけではない。
いまや世界中の観光客でにぎわう祇園の風景を見て勘違いしている人も多いが、そもそも花街は観光客相手に商売をする観光地ではない。それどころか、ある意味ではもっとも観光と相性の悪い街であるともいえる。
花街とは「いちげんさんお断り」のしきたりでプライバシーを守られた「お偉いさん」が「お忍び」で遊びにくるようなところだからだ。そんな場所にカメラを構えた観光客が押し寄せて昼夜を問わずバシャバシャとシャッターを切るようになったら、果たして、その「お偉いさん」はそれでもまだこの街に通おうとしてくれるだろうか?
花街にとっては、マナー以前に、観光客が押し寄せるということ自体、「観光に巻き込まれる」ということ自体が、深刻な死活問題なのである。

この祇園の観光被害の事例には観光産業が根本的に抱える矛盾がよく表れている。観光産業は地域の文化資源や生活インフラを切り売りすることで対価を得ているという側面もありながら、それで利益を得るのは一部の観光産業に従事している人間だけで、その利益が地域の人々に平等に配分されるわけではない。つまり観光客が地域に与えるダメージに対して、その恩恵を受けられるのは一部の人間のみというアンバランスな構造である。
たとえば京都の祇園の風情を楽しむために世界中から観光客が押し寄せるが、「いちげんさんお断り」の高級店を特色とする街では観光客向けのビジネスを大々的に展開することはきわめて困難であり、またそれをしてしまうと「その街らしさ」がなくなってしまう。
通りいっぱいに土産物屋が並んだ花街など、もはや花街ではないからだ。つまり祇園が祇園であるかぎり、観光ではほとんど「カネが落ちない」のである。そして祇園の風情を無料で楽しんだ観光客たちは、別の地域のホテルやレストランへと消えていくのである。
2018年から京都市も導入することになった「宿泊税」はそのような問題を踏まえて観光で得た利益を地域に広く還元するための試みのひとつといえる。一般的にオーバーツーリズムとは観光客が地域にもたらす利益と地域の負担のバランスの問題であるといわれる。
どれだけ「迷惑」をかけられていたとしても、観光客が地域にもたらす利益がそれを上回るものであると地域の人々が感じているのであれば「観光が過剰である」とは意識されないのだ。
しかし、大量の観光客を受け入れても観光客向けの商業施設やホテルなどの観光産業に関わっている人以外にはほとんど利益がないとなっては、地域住民の多くにとっては「観光客なんか迷惑でしかない」ということになってしまうのも無理はない。
その「迷惑」には、生活やコミュニティの存続そのものを脅かす深刻なものから、買占め、ポイ捨て、交通機関の混雑への不満などさまざまなものがあるが、いずれにせよインバウンド受け入れに伴うダメージに対する対価や保障が平等に配分されていないことが根本にある。日本社会における「観光客ぎらい」の背景にあるのはそのような矛盾ではないだろうか。

観光はたしかに観光客というゲストと地域の人々というホストの出会いである。観光客の数というのは、その数だけ、この二者の出会いがあったということでもある。だからこそ、単なる数字の多寡に一喜一憂するのではなく、この二者がどのような出会い方をしているのか、人々はその出会いをどのように経験し、そこにどのような意味を見出しているのかには常に注意しなくてはならない。
さまざまな領域においてSDGs(持続可能な開発目標)というスローガンが掲げられるなか、「持続可能な観光」のあり方が議論される機会も増えた。だからこそ観光という現場で我々は何をすり減らして「カネに変えている」のか、これまで以上に自覚的になる必要があるだろう。