編集部からのお知らせ:
本記事は、書籍『パンクする京都 オーバーツーリズムと戦う観光都市』(著・中井治郎 、星海社新書)の中から一部抜粋し、転載したものです。京都在住の社会学者による、観光客の殺到による社会・経済問題「オーバーツーリズム」の提起をお読みください。
「ノーモア・ツーリズム(もう観光はごめんだ)」を叫ぶ反観光運動の最前線、バルセロナ。その運動をめぐって1つの言葉が誕生した。「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」である。「フォビア(phobia)」は恐怖症と訳されることが多いが、この場合、実際に使われているニュアンスとしては嫌悪や忌避に近いものである。
つまりツーリズモフォビアとは、オーバーツーリズムに悩まされた人々が抱く、自分の街が観光化されること、そして観光客への憎しみにも似た嫌悪の感情の高まりを表すために生み出された言葉である。殺伐とした言葉にも聞こえるが、そこまで追い詰められてしまった地域住民の悲鳴であるともいえる。
しかし、このツーリズモフォビアは、未曾有の外国人観光客を迎え入れる日本、そしてオーバーツーリズム問題に悩まされる京都においても他人事ではない。この章では、ついに「観光される側」となった我々がいかにして「観光客ぎらい」になりつつあるのかを見てみよう。
観光でもうかるのは「よそもの」?
とくに日本では地方経済の「救世主」として促進されてきた外国人観光客の受け入れ。しかし観光産業の実態は「地元にお金が落ちにくい」産業であるといわれているのだ。
京都でも「外資」によるホテルやゲストハウスのオープン、そして民泊の営業などが相次いでいることは先に述べたが、大規模なリゾートやホテルの開発などに限らず、宿泊施設、飲食店、旅行会社によるツアーの催行など、そもそも「外から人を連れてくる」という観光産業は宿命的にさまざまな局面において外部の資本の介入がつきものなのだ。つまり、「観光でもうかるのは地元でなく外部の資本」ということなのである。
観光産業は、途上国や過疎地など比較的に大きな資本を準備できない地域でも取り組むことができる。そのため日本でも農山村などの「村おこし」として採用されることが多いが、その経済効果というのは限定的であり、大規模な開発においては「おいしいところはみんな、よその人間にもっていかれる」という悲しい事態が頻繁に起こってしまうことも事実である。
とくに近年はクルーズ船をチャーターしてのツアーや、系列の宿泊施設や飲食店などを利用させるツアーなど、外部の資本が包括的に観光客を丸抱えするビジネスモデルが台頭している。このように実際に観光客を受け入れる地元にはほとんどお金が落ちなくなってしまう観光ビジネスモデルの蔓延(まんえん)は、今後も大きな問題となっていくだろう。
国は「地元で何とかしろ」
インバウンド促進の旗を振る国としてもオーバーツーリズムは無視できない問題となっており、観光庁内に「持続可能な観光推進本部」を設置、重要課題としてこれに取り組む方針を発表している。しかし一方で2019年6月に京都の現状を視察に訪れた菅官房長官は「一義的には地方自治体の問題だと思う」と発言、まずは地域で対応すべきとの立場を固持している。つまりは「地元でなんとかしろ」ということである。
一般的にオーバーツーリズムとは観光客が地域にもたらす利益と地域の負担のバランスの問題であるといわれる。どれだけ「迷惑」をかけられていたとしても、観光客および観光産業が地域にもたらす利益を地域の人々が感じているのであれば「観光が過剰である」とは意識されないのだ。つまり、オーバーツーリズムは問題化されないということである。
しかし、大量の観光客を受け入れても観光客向けの商業施設やホテルなどの観光産業にかかわっている人以外にはほとんど利益がないとなっては、地域住民の多くにとっては「観光客なんか迷惑でしかない」ということになってしまうのも無理はない。
実は「言うほど増えてへん」観光客
いつもはいけ好かない京都人が、得意のいけずも通じない観光客の大群に困り果てる様子に留飲を下げたい! そんな「京都ぎらい」が、この記事に目をとめてくれた読者のなかにいないとも言い切れないが、そんないじわるな読者のためにも、ここで1つ重大なタネ明かしをしておかなくてはいけない。京都の観光客の数は、じつは「いうほど増えてへん」のである。
観光客の引き起こすさまざまな問題に京都の市民が悲鳴を上げるオーバーツーリズム的状況が大きく問題化されるようになってきたのは、15年前後からであるといわれている。しかし京都を訪れる観光客数が5000万人を突破した08年以降、その数がピークを記録した15年でも5600万人ほどなのである。しかも、その後は減少傾向にあって18年には5275万人まで数字を下げている。
つまり観光客数は「いうほど増えてへん」うえに、近年ではむしろ減りつつあるのである。ではなぜ、京都のオーバーツーリズムは深刻化したのだろうか。
減少する京都の日本人宿泊数
そのカラクリにおいて重要なことは「量」ではなく「質」への着目である。つまり、「どれくらいの人が京都に来ているのか?」ではなく、「どんな人が京都に来ているのか?」という視点だ。
京都における観光産業の主役だったのはもちろん日本人観光客だった。この日本人観光客が減っているのだ。たとえば、お宿バブルといわれ「部屋が取れない。取れても高くて泊まれない」などといわれてきた近年の京都であるが、じつは日本人宿泊数はここ数年、毎年数%ずつ減少し続けており、とくに主要ホテルの日本人宿泊者数は18年には9.4%も減少したという。
また19年の7月に発表された「じゃらんリサーチセンター」による18年度の宿泊旅行調査結果では、京都の宿泊者数は全国7位であり、「大人が楽しめるスポットや施設・体験が多かった」では5位と健闘するものの、「地元ならではのおいしい食べ物が多かった」29位、「地元の人のホスピタリティを感じた」18 位など、たとえば8分野のうち4分野で1位を占める沖縄に比べるととても「日本一魅力的な観光都市」などと胸を張れるものではない。さらに前年度に比較しても8分野中6分野で順位を下げているのである。
近年は日本全体で国内旅行者数が減少傾向にあるとはいえ、これらのデータや調査結果からは、「日本人の京都ばなれ」がひそかに進行しているさまを見て取ることができるかもしれない。
しかし、すっかり決まり文句となった「若者の~ばなれ」が往々にして「若者ではない人」の一面的な物事の捉え方を示すものでしかないように、「日本人の京都ばなれ」にも、その言葉に安易に乗っかる前にその背景に目を向けることも重要である。
外国人客と「部屋の奪い合い」に
たとえば日本人宿泊者数の低下の背景としては、「お宿バブル」を引き起こした宿不足の結果、外国人観光客と日本人観光客のあいだで部屋の奪い合いが起こっていることが指摘されている。気軽な国内旅行として京都を訪れようと思う日本人観光客と、一大イベントである海外旅行として京都を訪れようと思う外国人観光客では、宿を予約するタイミングがちがうのだ。
つまり「よし、はるばる日本にいくぞ!」という意気込みの外国人たちが旅行の数カ月も前に部屋を押さえてしまうため、「来月の連休、ちょっと京都でも行ってみようか」とふと思い立った日本人が宿を取ろうとホテル予約サイトを開く頃には、ときすでに遅し。希望の日程と適当な予算でプランを検索してもどこも満室。「仕方ない、京都はあきらめるか」と、またちがう観光地の名前で検索し始めることになってしまうのである。
また日本人にとっての京都の魅力・人気の低下にかんしても、京都市の発表した平成30年度「京都観光総合調査」にその背景をうかがわせる調査結果がある。実際に京都を訪れた日本人観光客への調査で、9割を超える人々が「京都観光に満足した」と答えている一方、「京都観光中に残念なことがあった」と答えた日本人も4割を超え、その多くが「観光客が多すぎて観光を楽しめなかった」「観光客のマナーが悪い」「いつも道路が混んでいる」などオーバーツーリズムに起因すると思われるものなのだ。
これはつまり満員電車の乗客の悲鳴と同じで、京都がそのキャパシティーを超えた観光客を受け入れていることへの苦情ともいえる。
外国人客に「押し出される」日本人客
ホテルの部屋数やバスの本数、また観光空間の広さなど、観光にかんするさまざまなインフラ的要素との兼ね合いのなかで、どれだけの観光客を受け入れられるかという観光地のキャパシティーは有限である。ホテルの予約合戦に負け、多すぎる観光客のために観光を楽しめない日本人観光客。そこには京都に押し寄せる外国人観光客と限られた観光インフラを奪い合い、「負けて」押し出される日本人観光客という構図が見え隠れする。「日本人の京都ばなれ」というより「京都から日本人が押し出されている」というほうが実状に近いといえるだろう。
そして、日本人観光客が減り外国人観光客が増えるというのは、京都を訪れる観光客数という「量」はそれほど変わらなくても「質」が徐々に入れ替わっていることを意味する。本書で見てきたような京都におけるオーバーツーリズムをめぐる問題は、じつは単に観光客の数が増えたことによるものではなく、全体の観光客数はそれほど変わらなくてもその中身が外国人観光客に取ってかわったことで惹起(じゃっき)しているのだ。
全体の観光客数は変わらなくても、そのなかで外国人観光客の比率が増えることで起こる問題はさまざまにあるが、まずは「集中」にかんするものと「文化」にかんするものとがあげられる。
外国人観光客の比率が高くなると必然的に「京都ははじめて」という人が多くなる。そうすると、清水寺や金閣寺など、日本人観光客であれば「修学旅行でいちど行ったから、もういいかな」と思ってしまう京都のゴールデンルートといわれる「ド定番」スポットに観光客が集中することになる。またバスの一日乗車券などを使用する人が多いため、限られた交通機関に観光客が集中してしまう。
また、文化にかんする摩擦は「マナー違反」という形で問題化されることが多い。「試食をすべて食べてしまう」「他の店の食べ物を持ち込む」「何も頼まずに居座る」など飲食店でのふるまい、ゴミのポイ捨て、トイレの使い方、道端で座り込む、落書きなど、この種のトラブルは観光地ごと、街ごと、お店の形態ごとに枚挙に暇がないほど多種多様な形をとることになる。もちろん「旅の恥はかき捨て」的な非日常ゆえの大胆さに起因するマナー違反もあるが、主にこのような異文化接触時の摩擦がマナー違反問題の根底にあると思ってよいだろう。
また定番の観光名所だけでなく地元の人々の暮らしを観光対象とする「まちなか」観光の人気が生む問題もある。市民の生活のための場所だった錦市場が観光化されていく問題や、舞妓パパラッチという形で問題化されている祇園や花街における外国人観光客のマナー違反の問題も、そもそもは「一見(いちげん)さんお断り」で知られる敷居(しきい)の高さで日本人観光客が遠慮を感じていた祇園界隈(かいわい)に、そんな「敷居の高さ」という感覚を共有しない外国人観光客が押し寄せていることが問題の根本である。これもある種の異文化接触の問題といえるだろう。
いずれにせよ、京都でオーバーツーリズムが問題化しはじめた2014年から16年の間に外国人宿泊客数は3倍も増加していた。このことからも観光客の「質」の変化が京都の地域社会にどれほど大きな影響を与えたかをうかがい知ることができるだろう。