9月2日、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止問題について外国人特派員協会で会見する芸術監督の津田大介氏(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
「あいちトリエンナーレ」については、すでに言うべきことをすべて書いたつもりでした。
ところが9月2日、まだ芸術監督を辞任していない津田大介氏と、「表現の不自由展」実行委員会とが、同じ「日本外国特派員協会」で別々に記者会見を開いたというので、念のために確認したところ、改めて腰を抜かしました。
ダメを絵に描いた見本よりも、さらに極端なダメを重ねた現実が、そこにありました。呆れました。
一番呆れたポイント数点は、多分どのメディアにも出ないと思います。
例えば、どちらの会見も同時通訳に頼っているのですが、しばしば(悪意なく)通訳が重要なポイントを訳し損ねるんですね。
正確なコミュニケーションの欠如、露骨に書けば語学力の問題にも呆れました。
「政治家が芸術作品の内容に言及干渉するのは憲法21条違反だ」といったデリケートな議論に関して、それが公金を用いた公の展覧会であるといった前提がすっ飛ばされていたり誤訳されていたり・・・。
自分が語っていた内容に関して、同時通訳のズレを全く指摘しない。聞いてないのか、分かってないのか。
そもそも国際芸術展というものは、元来それほどに透明なものではありません。
様々な思惑の渦巻く世界で、そこで芸術監督を務めるというのは、ありとあらゆるネゴシエーションをなんとかまとめていく、卓抜した交渉能力、並びに言葉のスキルを持っている必要があるのですが・・・。
いかりや長介の決まり文句「だめだこりゃ」が頭をよぎらざるを得ませんでした。
以下にも記すように「あいちトリエンナーレ2019」は、あまりに論外な体制で、巨額の官費を濫費した<失敗例>として、長く内外のアート・キュレーションの教科書に掲載されるべきものでしょう。
二度とこうしたことが起こらぬよう、再発防止に努めるべき「見本」であることが記者会見の内容からも確認できます。
具体的に例示してみます。
例えば、津田大介氏の9月2日記者会見で、7月31日の内覧会以降「平和の少女像」展示が大々的に報じられ、8月3日に中止に至った直後のやり取りに言及した部分を引用してみます。
「他方で、この3日間で、この作家に対してきちんと連絡もなく中止した、結果的にこれが検閲になってしまった、検閲のように見えてしまったということで、海外の作家からどんどん不満の声が出てきました」
「この間、海外のアーティストたちとはかなり話し合いは進めたんですけれども、やはりこの検閲された展示を中止された作家に連帯するということで、自分たちは展示をボイコット、あるいは展示の内容を変更するということで11の作家が現在、展示内容を変更、あるいは中止ということになっています」
この「海外のアーティストたちとはかなり話し合いは進めたんですけれども」という部分を目にして私は、高校生が漢文で習う「鴻門之会」で知将范増が思わず漏らした「!豎子不足與謀!」という言葉を思い出さざるを得ませんでした。
そもそも「表現の不自由展実行委員会」を「1人のアーティスト」として「あいちトリエンナーレ」が契約したという時点で、様々な意味で大間違い、中身の分からない単なる役人仕事に堕落しています。
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すでに広く報道され、また9月2日の記者会見でも触れられましたが、あいちトリエンナーレが契約した「アーティスト」は「表現の不自由展実行委員会」であるという形式が取られています。そのメンバーを確認してみましょう。
表現の不自由展実行委員会岡本有佳(編集者)アライ=ヒロユキ(美術評論家)
小倉利丸(富山大学名誉教授・経済学者・評論家)岩崎貞明(元テレビ朝日司法担当記者・専修大学特任教授)永田浩三(元NHKチーフプロデューサー・武蔵大学教授)
これらの方々は、各々の畑でひとかど以上の仕事をしてこられた人だと思います。
永田浩三さんはNHK時代、問題作を多数発表して内外で多数の賞も受けた「受賞男」で「クローズアップ現代」のプロデューサなども務め、2009年に早期退職して武蔵大学社会学部教授に就任されました。
地元練馬区の市民と協力して映画祭や美術展などを開催、ムサ大の目の前にある「ギャラリー古藤」で2015年に「表現の不自由展」を開催したのも、永田さんの尽力があったからだと思われます。
彼らを「左翼」だとか「反日」だとか誹謗中傷するネットの文字なども多数目にしましたが。薄っぺらくて下らないものが大半でした。永田さんは立派なテレビ番組制作者と思います。
小倉利丸さんは長年大衆音楽に関する論考を展開しており、私が1980年代、武満徹名義で音楽雑誌「ミュージック・トゥディ・クオータリー」を編集していた頃、すでに大衆音楽グローバリズムの問題点を鋭く指摘されていました。
同世代の建畠晢さんやより年長の粉川哲夫さん、多木浩二さんなどに連なる思潮の中で、長年にわたり真摯な議論を展開してこられた。個人的には尊敬すべき方々と思います。
ちなみに辻井喬こと堤清二さんは、こうした批判的な芸術の視座に強いシンパシーと関心を終生持たれ、1980年代はもとより2011年の福島第一原発事故以降も真摯に向き合っておられました。
(私はこの時期、堤さんとオペラのプロジェクトを進めていたのですが、ご逝去で流れました)
そうしたことを踏まえて明記したいと思うのですが、「アーティスト」として「委員会」が契約、はやってはいけないことです。失敗例として教科書に記す必要がある一点はここにあります。
考えてみてください。これはトリエンナーレ、国際美術展です。主役となるのは来場者の市民であり、そこに出品する作家、アーティストでなければなりません。
この両者が出会う場を設定するのがキュレーターであり、芸術監督サイドになります。彼らは、製品を包む段ボール箱みたいなもので、最終的には存在の意味があまりありません。
あくまで大切なのは、作品と鑑賞者とが出会うことです。
今回「トリエンナーレ」が「契約した<アーティスト>」は何だったか?
そもそもが、法人格のない「委員会」であるのが、本質的に手続きの瑕疵と思いますが、ここでは深く記しません。それ以上に、その委員会が
「(編集者)(美術評論家)(大学名誉教授・経済学者・評論家)(元テレビ司法担当記者・大学特任教授)(元テレビチーフプロデューサー・大学教授)」 という集合でできていること。これが決定的に「ダメ」です。
「実行委員会」の記者会見では「実際の作家や作品の<選考>は、この5人に津田大介さんを加えた6人で行った」と、きっと何か問題があるとは全く思っていないのでしょう、堂々と会見で述べていました。とんでもないことです。
いま「X国オリンピック選手団」である、と称して
団長(スポーツライター)副団長(もとスポーツ雑誌編集長、大学教授)
団員(スポーツ評論家)団員(元スポーツ新聞記者、大学特任教授)団員(元スポーツ用品メーカー開発担当・大学教授)
とか、そんなラインナップだけで、一人のアスリートもいないという状況を考えるなら、どうですか?
今の展覧会は、まさにこれをやっています。
それがまともな状況でないことは、多くの人に直ちに理解していただけると思います。
スポーツ思想家としてどれだけ優れた人であっても、実際にアスリートの経験がない人がコーチなどになって、強い選手は育ちません。
ちなみに、上の方々がどうであるかは確認していませんが、昨今の大学は少子高齢化のため、テレビ局その他から有力OBOGを簡単に引き抜いて「教授」に据え、就職率の向上に備えている実態があります。
学部卒で就職する若者を、そうした現場OBが教員として指導するのは結構ですが、まかり間違っても大学院修士、博士などの指導は、やらないでいただきたい。
自身が修士論文も博士論文も書いたことがないのに、修士や博士の学位指導をすると称して、実際はまともな指導ができず、その結果様々な問題が日本の大学では今現在も発生しています。
やったことのないこと、経験のないことを、形だけ引き受けるなど、大人がすることではない。
まして、官費つまり税を原資とする公金を使うような場で、そんな無法がまかり通るわけがありません。
今回の「表現の不自由展」が失敗した一大原因は、アーティストがいないことにあります。
素人の芸術監督と、それが契約した「5人のメンバーからなる委員会」が実際の出品作家や作品を「選んだ」と、恥ずかし気もなく記者会見の場で堂々と述べている。
「作家や作品を選ぶ」という行為は「アーティスト」つまり作品を作る人の仕事の持ち分ではありません。<クリエーター>の仕事ではなく<プロデューサー/ディレクター>の仕事です。
より正確に言うなら、これは美術展の「キュレーション」という別の仕事、日本語で記すなら「学芸員」ないしアート・プロデューサーの職掌です。
素人芸術監督は「アーティスト」つまり<ものづくり>をするはずの人との契約枠で「キュレーション」つまり<仲買人>の仕事を「編集者」「評論家」「大学教授」「元司法記者」「元テレビディレクター」などからなる、<仲買>のプロではない、しかも法人格のない任意団体の寄り合いに依頼した。
ここには一人も「アーティスト」はいません。
さらに言えば、一人プロフェッショナル・キュレーター、つまりアートディレクションのプロもいません。
「表現の自由」について本を書いたことがあったとしても、一つの作品を世に問うて、それを撤去された経験を持つアーティストが、このラインナップの中におられるようには私には見えない。
作り手と批評家は、同じ植木鉢に投入される「花の種」と「肥料」くらいに、別のものです。
肥料がなければ種は育ちにくい。でも植木鉢の中に一粒の種がなければ、いくら肥料だけ入れてあっても永遠に芽が出ることはない。
上のラインナップは栄養豊かな園芸肥料のラインナップと思うけれど、一輪の花が咲くために必要な、朝顔のタネ一つが決定的に不足している。
各々立派な方々だとは思うけれど、餅屋ではない。
市場で言うなら、野菜を生産したり、魚を取ってきたりする<1次生産者>が一人もいない。
仲卸などの正式の鑑札をもたない、アマチュア仲買人に相当する人が6人・・・アマチュア芸術監督も含め・・・官費を執行して美術展を行う正規の手続きをどう踏めばよいのか知らないままトリエンナーレ初日があと数か月に迫る段階で、あの人の作品を借りてくるのがいい、いやこの人がいい、などと談義していた、という記者会見になっている。
これは「表現の自由」がどうこう、という以前の話で、まともな手続き、デュープロセスがそもそも成立していない。
会場に並ぶ作品一つひとつは仲買人の「作品」でもなければ「表現」であるかも、会見を見る限り疑わしく思いました。
キュレーションそのものが「表現」と呼ばれるまでの完成度を持っていたものであるかどうかは、図録などを見れば一目瞭然。
何年も準備した立派なキュレーターの仕事であれば私は喜んでシャッポを脱ぎますし、なんとなく寄り合いの茶飲み談義で決めたものなら、「少し熱を冷ましたら?」と問うのが分別でしょう。
委員会は最終的に「5+1人」で「16人の作家と作品を選んだ」というけれど、その中の一人として、トリエンナーレ当局と契約した正規のアーティストはいない。
これは公的な手続きにおいて決定的な瑕疵がある可能性が疑われることを、一クリエーターとして30数年、いろいろな泥水も飲まされてきた立場から記しておきたいと思います。
タネがなければ、決して花は咲くことがありません。
亡くなった数学者の志村五郎さんは素晴らしい才能だったと思うけれど、こと音楽ファンとしては最低最悪の物知りで、絶対にお目にかからない方がよいと思っていました。
事実、チャンスはありかけましたが、終生一度もお会いすることはありませんでした。それで良かったと思っています。
「あいちトリエンナーレ」の敗因の一つは、アマチュアに不可能な職掌をド素人に与えたことにあります。
さらに「表現の不自由展」が失敗した必然の一つは、素人の素人考えで、アーティストではない「アマチュア・キュレーター」の任意団体を契約対象として、官費を執行する厳密な業務であるはずの国際展に、あらゆる意味で穴だらけの、そもそも仕事として成立しえない案件を持ち込んだことにあります。
津田氏の会見で引用した「海外のアーティストたちとはかなり話し合いは進めた」とかいう部分ですが、
ラテンアメリカを中心とする(政治的に厳しい国情の中で芸術主張を展開してきた)<アーティストたち>は、明らかに各々のアーティストがトリエンナーレと契約しているわけですが、果たして「表現の不自由」なんちゃらが、実態はノンプロ・キュレーターの任意団体で、個々のアーティストとのまともな契約になっていないことなど理解しているのでしょうか?
あの通訳丸頼み方式を見るに、およそまともなコミュニケーションであった保証はないように懸念せざるを得ません。
そもそも、「平和の少女像」という作品そのものが、キム・ウンソン+キム・ソギョンという韓国人芸術家、つまり「海外のアーティスト」の作品にほかなりません。
ところが、その認識あるいは自覚が、微塵も感じられないやり取りになっている。
つまり、もっぱら日本国内の観点からのみ「平和の少女像」を<ジャーナリスティック>に扱ってしまった。
これが最大の敗因じゃないでしょうか。問題外です。
冒頭にも記した通り、同時通訳に頼る英語のコミュニケーションが救いようがなく、初歩的な情報が落ちた形で素っ頓狂なことになってしまったり、「実行委員会」会見の後半などは悲喜劇の状態に近づいていましたが、それらについてはおりがあれば稿を改めましょう。
「素人の、素人による、素人ための官費の無駄遣いが必然的に失敗した」という今回の詳細は、プロフェッショナルのアート・ディレクションにおいて二度と繰り返されぬよう、できれば最低限まともな英語などを伴って、国際的に発信しておくとよいように思います。
あまりにも稚拙で、そもそも「表現がどうした」とかいう水準に達していません。1の1からボタンをかけ違った、単なる大間違いに過ぎず、二度と繰り返すべきではありません。
(つづく)
筆者:伊東 乾