「芸能人の謝罪」について考えてみたい。というのも今年は劇的な変化があった年なのです。
まず先週末の沢尻エリカ被告の保釈時のスポーツ紙の見出し(12月7日)。
「謝罪難色 メディア待つ正面避け 裏口保釈 沢尻被告」(日刊スポーツ)
「裏口から保釈 沢尻被告」(サンスポ)
「裏口から車で姿見せず」(スポーツ報知)
マスコミを避けて裏口から出やがった、という各紙の思いを行間から感じたのは私だけだろうか。
夕刊紙はもっとハッキリしてる。
「沢尻被告 不機嫌保釈のナゾ」(東スポ)
「謝罪拒否の真相と裁判のこれから」(日刊ゲンダイ)
これらの記事を読んで感じたのは沢尻エリカのイライラではない。報じる側(オヤジジャーナル)のイライラ感なのだ。「なんでマスコミの前で謝罪しないんだ」という。
しかもそれは道徳心からではなく「俺たちが寒いなかずっと待っていたのに」というイラっであり、さらに言えば「せっかく記事のスペースを大きく空けて待っていたのにどうしてくれるんだよ」という事務的なイライラである。
報道陣のイライラに世論が同調していればそれは正義となるが、沢尻被告の態度より「ヘリまで飛ばして追いかけて騒ぎすぎじゃないか」と報じる側に呆れていた人のほうがSNSでは多かったように思う。SNSを一つの世論とするなら、世の中と報道に温度差がありすぎたことになる。
それで言うと今年、もう一つ象徴的な案件があった。
「仰天保釈 田口淳之介土下座」(日刊スポーツ・6月8日)である。
あの田口淳之介の土下座は見てはいけないものを見てしまったと思った。気まずくなった。しかし報じる側は「絵になる」から興奮していたように見えた。一面でデカデカと報じたスポーツ紙もある。
この温度差は何か。
振り返ればここ10年ぐらい、芸能人の謝罪はセレモニー化していた。逮捕されてしばらく話題の中心だった人物の「顔が見たい」という単純な野次馬精神に応え、カメラの前で謝罪する。
クライマックスは出てきた瞬間である。つまり出オチだ。自分の顔を晒して「世間の皆さまにご迷惑をおかけしました」と発することでその一件はピークを迎え、あとは潮が引いていく。この繰り返し。
だからこそ田口淳之介はその「決着」のハードルを過剰に引き上げ、土下座したのだろう。伝える側は狂喜したかもしれないが、「そこまでしなくていいよ」と少なくない人は思った。この温度差が何を生んだかといえば「報道される側」(タレント)より「報道する側」(マスコミ)のほうを世の中がツッコみ始めるという逆転である。
謝罪とはケースはまったく異なるが、有名人の大きな会見でも興味深いことが今年は起きた。
山里亮太&蒼井優の結婚会見があったが、あのとき蒼井優は魔性の女だの、本人達の前でアップデートされてない振る舞いをする記者にSNS上のツッコミが集中した。
まだある。3月に日本でおこなわれたメジャーリーグ開幕戦でイチローが引退を表明。試合後の記者会見のとき、
「開幕前シリーズを大きなギフトとおっしゃっていたが、私たちのほうが大きなギフトをもらった。これからどんなギフトをくれるのか」
「生き様でファンに伝えられたこと、伝わったら嬉しいと思うことは」
などのふんわりとした質問が幾つもあった。つい私も「このとんちんかんな質問をしている人は誰なんだ」と興味を持ってしまった。
普段イチローを取材していない人も参加していたからだろう。イチローと対峙してきた記者とそうでない人の質問が混ざり合う混沌の場。だからこそ見てる側はツッコんだのだ、イチローの無駄遣いをするなと。プロの記者が見たいのだと。
芸能人や有名人の会見そのものより、それを「どう報じるか」のほうにシビアな目線。今年はとくにそんなパターンが多かったように思う。誰でも発信し、批評できる時代の特性である。
そこで最大のツッコミは「まだそんなことやってんの?」だ。保釈時のバカ騒ぎしかり、おめでたい会見での古い質問しかり、スポーツ選手へのマヌケな質問しかり。
報道陣の前で謝罪は必要なのかというそもそもの疑問もある。あのセレモニーはこれからも必要なのか。「芸能人の堕ちた姿」という古い型の報道ももうお腹いっぱい。薬物依存というなら治療して再出発すればよいだけだ。
さて、実は今年もうひとつ劇的な保釈があった。
カルロス・ゴーン氏である。変装で出現のあれ。
ああいう「空中戦」はスポーツ紙やワイドショーがいちばん喜んじゃうやつだ。
ただ、あの変装も過剰な報道に対する過剰な防衛と考えれば、やはり今年は有名人の保釈時の報道について大きな変化があった年だったのだと思います。
(プチ鹿島)