明治の関西財界重鎮 松本重太郎の生涯知って 元中学校長が兄の遺志継ぎ授業 京都・京丹後

明治時代の実業家、松本重太郎(1844~1913)の生涯を学ぶ特別授業が17日、出身地の京都府京丹後市丹後町間人の市立丹後小であった。「東の渋沢栄一、西の松本重太郎」と呼ばれた関西財界の重鎮で、間人区長を務めた故東和彦さんが「郷土が生んだ偉人を知ってほしい」と5年前から毎年特別授業を続けていた。弟の元中学校長、東正彦さん(65)が遺志を継ぎ、この日教壇に立った。【塩田敏夫】
松本は南海電鉄や東洋紡、アサヒビールなど数々の会社の創業に関わった。現在のJR西日本の元となった山陽鉄道を設立。アイデアマンとして知られ、食堂車など次々と「業界初」の事業を展開し、「鉄道王」とも呼ばれた。しかし、日露戦争の影響で百三十銀行が巨額の不良債権を出して経営危機に陥ると、全ての財産を差し出し、借家生活を送る。チャレンジ精神旺盛で潔い生涯は城山三郎の「気張る男」に描かれている。
間人小(現在の丹後小)の校舎の建設資金を寄付した。和彦さんは郷土の偉人の生涯を顕彰しようと、地元住民たちで「実行委員会」を結成。13年には「没後100年シンポジウム」を開催。以来、毎年生誕祭を開き、間人小で特別授業を行ってきた。しかし、今年9月5日、病気で死去した。67歳だった。
弟の正彦さんの話では、室田秀和校長(59)から「引き続き松本重太郎を子どもたちに教えてほしい」と依頼されたことでこの日の特別授業が実現した。
正彦さんは間人小、間人中、網野高、京都教育大と進み、長岡市立長岡第二中の校長を務めるなど長年教員生活を送った。この春から両親が経営する東書店の手伝いをするようになった。

正彦さんは小さいころから間人の海で泳ぎ、育った人生から語り始めた。間人小には昔からの伝統行事に遠泳がある。当時は、沖合の海に「ポチャン」を放り投げられ、子どもたちが懸命になって岸まで泳ぎ着くことが「当たり前」だった。漁師はその日のために船を出した。「そこには子どもたちが健康に育ってほしいという住民の願いが込められていた」と振り返った。
普段の遊びも水泳。海に潜ってサザエやアワビを捕り、浜でサツマ芋と一緒に焼いて食べた。台風が来た日も泳いだ。そうしたことが許された時代で、健康な体に鍛えられたことを今でも感謝しているという。
正彦さんは松本の生涯を2時限の授業で振り返り、「重太郎のすごさは人と人をつなげる度量があったことだった」と語った。広い度量があったからこそ、今も残る多くの大企業を創業できたと指摘した。そして、その生き方から教えられた大切なこととして「学ぶこと、夢を持つこと、人や世の中のために努力すること、窮地でも逃げない責任の取り方」などを上げた。
最後に「健康が大事。何かをやろうと思った時、健康が礎となる。自分を信じて苦しさに負けないで。しっかりと勉強し、世の中に役立つになってください」と呼び掛けた。