京都市埋蔵文化財研究所(埋文研)は12日、同市南区の平安京跡の発掘調査で、都の内外を隔てる築地(ついじ)塀「羅城(らじょう)」の跡を初めて確認したと発表した。都の最南端を東西方向に貫く九条大路の跡も初めて見つかった。平安京に羅城があったことが証明され、研究者の間で異なる意見があった南端の位置も考古学的に確定し、埋文研は「平安京の実態を知る上で画期的な成果」としている。
平安京の「右京九条二坊四町」に当たる計約5445平方メートルの区域を昨年12月から調査。東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面とその南北の側溝が見つかり、さらに南側の溝の外側に砂利と土をたたき固めた高さ約15センチ、幅約3メートルの土壇もあった。いずれも平安京が造営された9世紀当初の遺構とみられ、路面は九条大路、土壇は羅城の塀を築いた基礎部分と考えられるという。
平安京の都市計画は905~27年に編纂(へんさん)された律令施行細則「延喜式」に記録されているが、確認された羅城と九条大路は、記述から推定される位置に一致した。
羅城は、古代中国の都で外敵から守るため周囲に築かれた城壁。日本では都を荘厳に見せるため正門「羅城門」の周囲に築地塀として設けられた。平城京(奈良)では南辺のほぼ全体にあったことが調査で確認されているが、平安京では見つかっていなかった。今回の調査地は羅城門の西約630メートルに位置し、門から2区画目(二坊)に当たることから、平安京でも南辺全体にあった可能性がある。
一方、九条大路の遺構は南北の溝の間が約30メートルあり、大路の南側の羅城と北側にあったとみられる築地塀の間は約36メートルと推定された。延喜式には「南の極(きわ)の大路12丈、羅城の外2丈」(1丈は約3メートル)と記され、大路の道幅に「外2丈」を含むのか意見が分かれていたが、遺構から「外2丈」を含まない「12丈」と結論付けられた。
西山良平・京都大名誉教授(日本古代中世史)は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり高い精度で造られていたことが明らかになった。日本の都城の発達史を考える上で極めて大きな成果といえる」と話している。現地説明会を14日午前10時~11時半に開く。問い合わせは現場事務所(080・1402・4072、当日のみ)。【澤木政輝】