WW2では連合国、枢軸国問わず、領空侵犯機に対して攻撃や撃墜もいとわなかった武装中立国スイスですが、21世紀のいま、特に空軍の凋落には著しいものがあり、ハイジャック事件にも対応できませんでした。現状とその背景を解説します。
スイスと聞けば、日本人のほとんどは「平和な牧歌的風景」か「永世中立を国是とする強固な武装軍事国家」どちらか(もしくは両方)をイメージすることでしょう。
なんとも対極的な顔を持つスイスではありますが、実のところスイスの武装中立政策は2020年現在、ほぼ形骸化した名目上だけのものになっています。その傾向は特に空軍において顕著で、機能不全に陥りかねない極めて深刻な状況に立たされています。
スイス空軍の主力戦闘機F/A-18C「ホーネット」。緊急発進待機は全て本機で実施している。30機を保有し当面のあいだ、運用可能な唯一の戦闘機となる(関 賢太郎撮影)。
2014(平成26)年2月17日、スイス空軍の凋落を特に象徴づける事件が発生します。この日未明、エチオピア航空702便が、同旅客機の副操縦士によってハイジャックされました。ハイジャック機はイタリア領空からスイス領空へ進入し、午前6時にジュネーブ・コアントラン空港へ強行着陸しましたが、スイス空軍はこれに対応できず、代わりにフランス空軍戦闘機(ミラージュ2000)がスイス領空内に入り、ハイジャック機をエスコートしました。
なぜスイスが自国の空軍で対応できなかったのかというと、戦闘機の緊急発進(QRA)待機に問題があったからでした。スイス空軍の緊急発進待機は当時、平日の午前8時から17時まで、さらに正午から1時間半の昼休みが入るため、1日あたり7時間30分に限られていたのです。端的に言えば、ハイジャック機が飛来した早朝は「営業時間外」で、スクランブル発進は不可能でした。
陸続きで小国も少なくないヨーロッパ諸国においては、隣国とある程度、共同して緊急発進待機を維持することは珍しくありません。よってフランス空軍が対応したこともその場しのぎではなく、事前の協定が機能した結果ではありました。しかし「営業時間外ショック」は中立国であるスイスにおいて、大きな政治問題へ発展します。
スイスはそののち「航空警察24時計画(LP24)」として、F/A-18「ホーネット」戦闘機2機による15分以内緊急発進待機24時間化、週7日化を進めます。
このまま防空体制の見直しが進展するかと思いきや、ハイジャック事件から3か月後の5月18日、今度は旧式化したF-5E/F「タイガーII」戦闘機の後継となる次期戦闘機「グリペンE」22機の導入を問う国民投票において、有効投票数のうち賛成票(46.59%)に対し反対票(53.41%)が上回るという事態が発生します。
スイスは一定以上の署名を集めた議題について、国民投票でその是非を問う直接民主制を採用しています。国民投票の結果には法的拘束力があるため、グリペンEの導入は民意を反映し中止となりました。
スイスは周辺国の全てが「西側諸国」であり、国境においても出入国審査さえありません。かつての冷戦時代のような、外国(おもに共産圏)の侵略に抵抗するための「武装中立を国是とする強固な軍事国家」である必要がなくなっています。つまり外敵が無いため、いま新しい戦闘機を調達する必要はないと、多くのスイス国民が考えたのです。
また「平和な牧歌的風景」のイメージを売りとするスイスにおける、騒音公害発生源たる戦闘機への嫌悪は根強く、2008(平成20)年には「観光エリア(事実上ほぼ全土にわたる)の戦闘機飛行禁止」が国民投票にかけられました。さすがにこれは反対票68.08%(有効投票)で否決されているものの、それでも賛成票31.92%を集めています。
もちろん2014年のエチオピア航空702便ハイジャック事件で露呈したような、営業時間外に対応できない空軍では中立国として問題があることも事実です。
そうした理由もあり、前出の「航空警察24時計画」は2015年から開始され2020年現在、計画の進展によってスイス空軍の緊急発進待機は2シフト制となり午前6時から22時まで拡張され、「定休日」も無くなりました。2021年初頭までには3シフト制で24時間化される見込みです。
しかしF-5E/Fは次期戦闘機が配備されないまま間もなく退役することから、空軍は「戦闘機は減るが緊急発進待機は拡大しなくてはならない」という、非常に厳しい運用を強いられます。
山岳地帯の小さな航空基地マイリンゲンを離陸するF/A-18。スイスは国土が狭いうえ全土にわたり観光地と山が多く、戦闘機を運用する悪条件が揃っている(関 賢太郎撮影)。
第2次世界大戦当時のスイス空軍は、相手がナチスドイツであろうとアメリカ・イギリスであろうと、中立国として領空侵犯機に厳しく対処し、時に交戦や撃墜することさえ珍しくはありませんでした。冷戦時は国産ジェット戦闘機の開発さえ主導し、冷戦末期の1990(平成2)年時点においては、戦闘機約300機を有する大国並みの空軍がありました。
文字通りハリネズミ軍事国家だったスイスも、冷戦終結から30年が経過した現在、戦闘機保有数は10分の1にまで縮小され、空軍は「2機の戦闘機を15分以内に離陸させる体制を常時維持する」、それすらできるかできないかの瀬戸際に追い込まれています。
主力機F/A-18も2025年頃には退役が始まるため、現在は「防空2030計画」として再び次世代戦闘機選定を行っており、2021年にユーロファイター、ラファール、F/A-18E/F、F-35のなかから選択する予定です。
スイスの防衛費はGDP比0.7%、最低30機の戦闘機(+防空システム)を調達するにはGDP比0.8%まで大幅な防衛費増額が必要となります。軍拡に対する国民の反発を受けつつも、軍および政府はもはや次期戦闘機選定を中止にはできないとし、その必要性への支持を訴えています。