太平洋戦争末期に米軍との激戦で2万人を超える日本兵が命を落とした硫黄島(東京都小笠原村)で16日、都主催の戦没者追悼式があり、遺族54人や関係者が鎮魂の祈りをささげた。
追悼式は、激戦地となった島中部の台地にある都の慰霊施設「鎮魂の丘」で1983年度から毎年行われている。例年、参列者は自衛隊機で島に入っていたが、高齢化する遺族の体力的な負担を軽くするため、今年度から都がチャーターした民間機を使うことにした。
追悼式で梶原洋副知事が「島の悲しい歴史を次の世代へと確実に語り継ぎ、平和な社会の実現に向けて積極的に取り組む」とする小池百合子知事の式辞を代読。遺族は島に眠る父や兄、祖父たちの冥福を祈り、慰霊碑に一人一人花を手向けた。
式典後、参列者は米兵が星条旗を掲げようとする写真で知られる島南端の摺鉢(すりばち)山や、傷病者を救護した旧日本軍の医務科壕(いむかごう)などを巡った。【森健太郎】
慰霊は孫の世代へ
「今日の平和な時代は戦没者の尊い犠牲の上に築かれている。戦争は絶対にしてはいけない。悲しい遺族は出してはならない」。式典で遺族を代表して稲城市の自営業、岩井堅太郎さん(75)は追悼の言葉を述べ、不戦への誓いを新たにした。
岩井さんは、陸軍上等兵だった父邦蔵さんの一人息子。父は自身が生まれた直後に出征し、8カ月後の1944年10月に北硫黄島付近で戦死したという。父の面影は写真でしか知らない。女手一つで育ててくれた母シンさんも一昨年末に100歳で天寿を全うした。
生前、初めて追悼式に参列したときは船酔いに苦しみながら海路で1週間かけて参列した母。その後も何度も追悼式に足を運んだ。硫黄島の戦没者の遺骨は多くが見つかっておらず、母が眠る墓に父の遺骨を納めることはできていない。
岩井さんは「きっと天国で母も父と再会できたはずだ」と南の島の空を見上げた後、「遺骨の一片でも早く一緒にしてあげたい」と話して目を伏せた。
今年で戦後75年を迎え、遺族の高齢化も目立つ。近年、参列者は戦没者の子から孫の代へと移りつつあり、岩井さんも今回初めて長男の一芳さん(45)と島に来た。
祖父が眠る地で一芳さんは「人生で一番祖父を近くに感じられた。父の思いを受け継ぎ、いつか娘を連れて来たい」と語った。
硫黄島の戦い
太平洋戦争末期、東京都心から南へ約1200キロにある硫黄島(小笠原村)であった日米両軍の激戦。1945年2月19日に米軍約6万人が上陸し、日本軍2万人余りが本土への空襲を防ぐため、地下壕(ごう)などを拠点に3月26日まで組織的抵抗を続けた。日本軍約2万人、米軍約6800人が戦死したとされる。68年に米国から返還後は遺骨収集が続くが、日本軍兵士の約半数は未収容となっている。現在は自衛隊基地があり、民間人は自由に行き来できない。