2009年1月に難病「抗NMDA受容体脳炎」を発症した石崎美香さん(37)=茨城県つくば市=は、病気のメカニズム解明から間もなかったために、適切な治療を受けるまで8カ月を要したが、治療・研究の第一人者である北里大学病院の飯塚高浩医師の診察を経て意識を回復した。翌10年6月、リハビリ専門病院を退院し、早期の社会復帰を目指して、ハローワークから紹介された事務系職場に勤めたが、ことごとく長続きしなかった。後遺症である記憶障害が壁になったのだ。発症前に接客業が好きだった彼女はその後、二つのホテルのフロント係に就職する幸運に恵まれたものの、ここでもなかなかうまくゆかない。「見えない後遺症」に苦しみながらもくじけない美香さんの姿を追った。【照山哲史】
退院から3年2カ月 高次脳機能障害診断
美香さんにとって2度目となるホテル勤務がひと月足らずで終わったのは13年7月のことである。母泰子さん(65)=茨城県那珂市=はその後いてもたってもいられずに、新聞記事で見つけて気になっていたという「脳損傷友の会・いばらき」(現在の高次脳機能障害友の会・いばらき)の門をたたいた。美香さんとともに病気のことはもちろん、これまで何度も就職に失敗したことを告げた。当時まだ誰も「抗NMDA受容体脳炎」の存在を知らなかった。しかし、病状を聞いた同会の滝沢静江会長ら役員は、交通事故などの外傷か、脳卒中などで脳が損傷したことによる後遺症で、「見えない障害」とも言われる「高次脳機能障害」の症状と同じだと感じていたという。
会が薦めてくれた「国立障害者リハビリテーションセンター病院」(埼玉県所沢市)で2週間入院しての検査を経て、美香さんは高次脳機能障害と診断された。リハビリ病院を退院してから3年2カ月もかかっていた。「抗NMDA受容体脳炎」の治療だけでなく、「高次脳機能障害」の診断にも長い時間を要した美香さん。病院から提供された「評価結果」文書には、記憶障害、注意障害、遂行機能障害のあることが記されており、記憶障害の項には「短期記憶」に問題があり、「日常生活活動の記憶に障害を認める。年齢や日付などの見当識もあいまい。日常生活レベルでも代償手段の活用が必要である」と注記されていた。短期記憶とは、比較的最近の出来事を記憶にとどめる能力で、抗NMDA受容体脳炎の患者の記憶障害ではこの能力が損なわれるのが特徴でもある。
診断を受けて、つくば市役所で精神障害者保健福祉手帳(3級)を取得した美香さんは、ハローワークで「障害者枠」での就職先を探すことになった。障害者向けの合同就職説明会で面接を受け、採用されたのが国立研究開発法人「土木研究所」=つくば市=である。初出勤は13年11月。初日の自己紹介で自身の障害について話し、上司が補足説明してくれたという。
美香さんの闘病や社会復帰などの経過を出版した「お母さんのこと忘れたらごめんね」(星雲社刊、税別1300円)で、泰子さんは「それまでの職場でも障害について説明してきたが、失敗した時に『障害があるので』と本人が言ったとしても周囲からは『言い訳』と取られるかもしれない。しかし、今回はそれを証明する『精神障害者保健福祉手帳』があることが娘の気持ちに大きくプラスの作用をしたようだ」と書いた。
土木研究所の障害者枠での非常勤勤務は5年間までで、美香さんは昨年10月末で一旦辞めたが、再び募集があり、今年5月から以前と同じ「研究企画課」で働いている。春の人事異動により、課員の顔ぶれも14人のうち11人が代わった。彼女にとっては全く新しい職場と言ってもいいだろう。前回の勤務時同様、「私(石崎)の主な障害と対応策」と題するA4判2枚の資料を用意した。高次脳機能障害に関する説明や自身の対応を説明する文書である。理解を深めてもらうため、再雇用の初日に課員全員に配布した。
美香さんの仕事は、文書類のコピーやファイルの電子化など単純作業が中心だ。採用時に面接した研究企画課の山岸宏司副参事は「面接でも、応対など他の応募者と比べて彼女は抜きんでた存在でした。実際の仕事もしっかりしており、トラブルも一切ない」と評価する。指導にあたる谷藤公彦主査は「作業を依頼する時は、仮に以前と同じ内容であっても常に初めての時のようにお願いしています。午前中に依頼したことであっても、午後に同様のお願いをする場合でも彼女の反応によっては一から教えています」と話している。
激しい症状に隠れる記憶障害 実は「発症段階からある」
ここまで、美香さんが本格的に社会復帰を果たすまでの経緯を見てきた。しかし、実話を基にした映画「8年越しの花嫁」(17年12月公開)はハッピーエンドで、美香さんのような記憶障害については一切触れられていない。8月初めに本ニュースサイトで連載した「8年越しの社会復帰」では、柳恵子さん(29)が「弟の存在を思い出せない」と打ち明けたことなどを紹介したが、美香さんほどの「短期記憶」障害は顕著ではなかったのだ。美香さんのケースはなぜここまでの障害が残ったのか。専門的な分析になるが、主治医である飯塚医師に尋ねた。
抗NMDA受容体脳炎と記憶の関係について、飯塚医師は「神経細胞を含む『奇形腫』という良性腫瘍が卵巣などにできることによって、神経細胞を異物として認識する抗体ができやすくなる。この脳炎は、脳の神経細胞の細胞膜上にある『NMDA受容体』という、記憶にとっても重要な神経伝達に関わる受け皿にその抗体が結合し、脳のネットワーク機能を障害することによって生じる病気なのです。NMDA受容体は、記憶の中枢である『海馬』に多く分布しており、意識障害、精神症状、けいれん、あるいは不随意運動など、同時に生じる激しい神経症状に隠れて、記憶障害は初期には目立たないことが多いが、実際には発症段階から記憶障害は生じています」と説明。さらに「治療によって、抗体を除去し、脳のネットワーク機能が回復することで記憶障害もゆっくり回復するが、海馬などに炎症が生じ、神経細胞が深く傷ついてしまうと、その回復もさらに遅れ、記憶障害が後遺症として残ることがあるのです」と話した。
そのうえで、美香さんのケースについては「発症段階で撮影した脳のMRI(磁気共鳴画像化装置)画像で、両側の海馬に炎症と浮腫(むくみ)を生じていることが分かります(「発症時」の写真を参照:*の部分が海馬に相当する部分)。また、病気を発症した09年ごろは、国内ではこの病気の存在が医師の間にもまだ広く知られておらず、診断をつけるための抗体測定法も、国内にはなかった。そういう事情があり、転院までの8カ月間は、抗体を除去する治療も実施されていなかったことなどが記憶障害が残った主な理由」とみる。
また、「転院してきた時点では、脳全体が萎縮していたことも、回復が遅れた要因の一つと考えています(「転院時」の写真を参照)。しかし、その後に脳の萎縮が回復している(「回復期」の写真を参照)。この病気では他の多くの脳炎と違い、脳の萎縮も回復し得ることを示しています」と分析する。
早期の積極的治療 脳損傷を食い止め早期回復促す
美香さんの後遺症の記憶障害はいつまで続くのだろうか。
飯塚医師は「発症早期から抗体ができるのを抑え、抗体を除去するような積極的な免疫治療を施せば、脳の損傷も最小限に食い止めることはできる」としたうえで、「同様に治療しても全く改善しない、または治りにくいケースもこの脳炎では約20%存在すると言われています。記憶障害に関しては、海馬にある神経細胞が明らかに損傷されたケースでは、炎症を生じていないケースより機能回復は悪い」と解説。続けて「この病気は(脳の萎縮が回復するように)数年以上の経過でゆっくりではあるが、徐々に脳の機能も回復していくと言われている。美香さんの記憶障害も、脳を使うことによって、今後も回復していくことを願っています」と話す。
古い記憶は人並み 忘れるのは直近のこと
美香さんは、自らの記憶障害をどう受け止めているのだろうか。
職場で配った自身への対応策を記した文書に「仕事の依頼なども口頭より、できればメモで」と記している。会話していても長くなると前段を忘れてしまうという。このため私の取材でも、メールのやり取りが中心になった。
古い記憶についての認識は、「昔のことは結構覚えていて、高校時代の友人と会っても当時の話は次々に出てくる」と語り、「普通の人と同じ感じ」と言う。「一番忘れてしまうと実感するのは、直近のこと」であるとし、短期記憶に問題があることを自覚している。日常生活で会話が長くなると、「前段を忘れてしまうので、相手が何を伝えたいのか分からなくなってしまう。自分が話すことも長くなると、前を忘れて同じことを繰り返してしまう。なので、会話は必要な要素だけの短いものになり、話が盛り上がりにくくなり、自分は相手からとてもつまらなく見えると思う」と自己分析している。
現状での回復の程度については「忘れやすい点は変わりなく、自分では良くなっているとは思えない。ただ、メモをするなど補う手立てはできるようになってきている」と代替手段による効果は出ているようだが、一方で「本当は会話をする時、相手の目を見ていたいので、メモを取りながら話を聞くのは好きではない」と真情を吐露した。
精神障害者保健福祉手帳は「お守り」
現職場は通算6年目に入った。「周囲の皆さんの理解が進んでいるのでやっていけるが、職場が変われば、同じことの繰り返しになるのでは……」と不安を隠さない。8月26日、美香さんは国立障害者リハビリテーションセンターへ出向き、精神障害者保健福祉手帳の3回目となる更新手続きのための診断を受けた。「高次脳機能障害」の診断によって、社会復帰を果たせたと考える美香さんは「手帳はお守りで、持っていることで自信になります」と力強くメールに記した。もうじき新たな「お守り」が手元に届くはずだ。