睡眠時間に関する国際調査を見ると、日本はどんな調査でもたいがいワースト1位か2位。日本人の睡眠時間は、世界最低レベルだ。
【グラフ】寝たいだけ寝ても睡眠解消に「3週間」かかる
厚生労働省が毎年実施している「国民健康・栄養調査」(平成29年)によると、1日の平均睡眠時間が「6時間未満」の人が、男性36.1%、女性42.1%。さらに「5時間未満」の人が、40代、50代で男女いずれも1割以上、つまり10人に1人はいるという結果が出ている。
しかも睡眠時間の変遷を見ると、日本人の平均睡眠時間は年々減少しつづけているのだ。1日24時間という限られた時間のなかで、やらなければいけないことが山積している。だから、睡眠時間を犠牲にするのはやむをえない。こう考えるのは仕方がないことなのかもしれない。加えて、もともと日本人のメンタリティには、睡眠を削って何かに励むことを「美徳」のように捉え、成果を上げるためには、「寝る間も惜しんで」仕事や勉強をすることが必要だ、という感覚が根づいている。
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2002年に結果が発表された、サンディエゴ大学が米国癌協会の協力を得て行った100万人規模の調査では、アメリカ人の平均的な睡眠時間は7.5時間だった。この報告だけなら何ら驚く事はない。話題になったのは、6年後の死亡率と睡眠時間の関係だ。同じ100万人を6年間、追跡調査したところ、死亡率が一番低かったのは、平均の7.5時間眠っている人たち。彼らを基準にすると、それより短時間睡眠の人も逆に長時間睡眠の人も、「6年後の死亡率が1.3倍も高い」という結果が出ている。
もちろん、既に重篤な病気がある人は、不眠になるとか、眠りすぎるとかいうこともあるだろう。そういう症例を除いても、睡眠時間と死亡率の関係は歴然としていた。
おなじ調査で、眠らない女性はどんどん太るということが指摘され、さらに話題になった。すなわち、短時間睡眠の女性は肥満の指標であるBMIが高く、睡眠時間がより短い方が肥満傾向がより強い。グリム童話の『眠れる森の美女 Sleeping Beauty』は文字通り正しかったのだ。
この報告以来、それまで睡眠研究にあまり関心のなかった内科、特に内分泌内科の医師たちも睡眠の重要性を再認識し、さまざまな調査が行われた。すると、睡眠制限をかけると大変なことが起きるという報告が次々と判明した。
・眠らないと、食べ過ぎを抑制するレプチンというホルモンが出ず、太る。・眠らないと、インシュリンの分泌や反応が悪くなって血糖値が高くなり、糖尿病を招く。・眠らないと、交感神経の緊張状態が続いて高血圧になる。・眠らないと、精神が不安定になり、鬱病、不安障害、アルコール依存、薬物依存の発症率が高くなる。
夜更けまで起きていて、やけにたくさん食べてしまった経験が、あなたにもあるだろう。それはホルモンの働きだが、短時間睡眠が肥満や糖尿病、高血圧などの生活習慣病に直結するのは上記を見れば明らかだ。
さらには、慢性の睡眠不足は、癌のリスクや認知症のリスクも高めることが次第に明らかになってきた。睡眠は、休息やホルモンバランスの調整だけでなく、記憶の整理定着、免疫力の増強、脳の老廃物除去等、病気の発症と直接関わる重要な機能があることを考えれば当然の報いかもしれない。
「今日はちょっと寝不足だ」「最近、睡眠不足でね」あなたもこうした言葉を交わしたことがあると思う。この場合、「眠りが少し“足りない”だけでたいした問題ではない」というニュアンスではないだろうか。
しかし米国スタンフォード大学の睡眠研究者は、睡眠が足りていない状態を、「睡眠不足」ではなく「睡眠負債」という言葉を使って表現する。借金同様、睡眠も不足が溜まって返済が滞ると、首が回らなくなり、終いには「眠りの自己破産」を引き起こすのだ。
アルコールや薬物を摂取した運転が危険なことは、よく知られている。睡眠負債を抱えた人のパフォーマンスも同じように危険なものだ。法の規制もなく、その危険性を本人が認識していないという点では、飲酒運転以上に危険かもしれない。
睡眠負債があると、日中の行動に大きなマイナス影響がある。一見、普通に起きている人でも、実はすべての機能が正常に働いているわけではない可能性が非常に高いのだ。
人が生理的に必要とする睡眠量を知るために、健康な8人を14時間、無理矢理ベッドに入れた1990年代の調査がある。実験前の8人の平均的な睡眠時間は7.5時間。彼らに1日中、好きなだけ寝てもらう。
1日目はみな13時間、2日目もみな13時間近く眠っていた。ところがその後は多く眠ることは無理で、徐々に睡眠時間が短くなり、逆に5時間も6時間もずっとベッドの上で起きているという状態になった。結局、3週間後に睡眠時間は平均8.2時間に固定した。これがこの8人の生理的に必要な睡眠時間だと考えられる。
しかしながら、長い期間、7.5時間の睡眠時間であった彼らは、長い間「毎日40分の睡眠負債」を抱えていたということだ。それが正常な8.2時間に回復するまでに3週間もかかった。つまり、40分の睡眠負債を返そうと思えば、毎日14時間ベッドに入ることを3週間続けなければいけないということだ。ほとんどの債務者はこの事実に気づいていない。
「睡眠負債」は日々の仕事のパフォーマンスを低下させるだけでなく、命に関わる病のリスクを高くすることが次々報告され、さらに「睡眠負債」は2017年の新語・流行語大賞トップ10に選出され、一般にも認識されるにいたった。
睡眠不足によってダメージを受けるのは、個人の生活だけではない。大きな視野から見れば、企業や社会に非常に大きな損失となる。たとえば、2016年に発表されたアメリカのシンクタンク、ランド研究所によると、日本における睡眠障害による経済損失の見積は年間最大で15兆円にのぼるとも試算された。
そこで、睡眠負債を解消するにはどうすれば良いかという課題だが、根本解決は個々人が充分に寝るしかない。時間がないなら睡眠の質を上げて対処しようと、種々の方法が考案されているが、これはあくまで対症療法だ。
私は、米国生活が長いので、日本の職場の習慣に驚く事も多い。とにかく会議の時間が長い。たとえば、午後1時からスタートした会議の終わる時間の指定がなく、毎回、4時、5時まで延々とつづく。意見が白熱して長引くというのならわかるが、形式的な発表が続き、なかには発言しない人もいる。発言をしなくても、組織の一員としてその会議に出なければならないような立場で拘束されているのだろう。
その点、アメリカは能力主義で、達成度を評価する社会ということもあって、個々の時間に対する価値観には鷹揚だ。
日本は治安もよくて、安全な国。ものが置かれていても盗られることもないし、落としたお金も盗られない。たいへんいい国だと思う。
一方、日本人は平気で「他人の時間は盗る」――。そんなふうに感じるのは、私だけだろうか?
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(西野 精治/文春ムック 文藝春秋オピニオン 2020年の論点100)