今年も新春恒例の「駅弁大会(第55回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)」が1月8日から21日まで、東京・新宿の京王百貨店で開催され、多くの駅弁ファンでごったがえした。
270種類を超える選りすぐりの駅弁が集結した、この最大級の駅弁大会でも、「峠の釜めし」はとりわけ人気の高い駅弁の1つだ。今年は5年ぶり2回目の店内調理が復活し、レアなでき立ての釜めしが食べられるというので、1日限定2,000食が連日完売の盛況だった。
今回は「峠の釜めし」の人気の秘密に迫りたい。
横川駅構内にある「峠の釜めし」売店
「峠の釜めし」は群馬県の西端、長野県軽井沢町に隣接する、安中市にある信越本線・横川駅の駅弁。横川駅は1日平均の乗客数わずか211人(18年度、JR東日本調べ)のごく小さな駅ながら、1日平均で8,000個が売れている。しかし、横川駅での販売数は微々たるものだ。
大半は、東京駅、新宿駅、軽井沢駅、高崎駅など主要駅の駅弁売場や、群馬県内と長野県内にあるドライブインなどの直営店、さらには全国各地で順次開催される駅弁大会で売り上げている。
なお、横川駅は1997年の北陸新幹線高崎・長野間先行開業(長野行新幹線開業)により、在来線の横川・軽井沢間が廃止され、分断された信越本線の終点の1つになっている。横川は軽井沢をはじめとする長野の観光の玄関口にあたり、概ね4月から11月までが観光シーズンだ。一方で、駅弁大会は冬を中心にスケジュールが組まれており、ちょうどよい塩梅で1年の売上が安定するように回せている。
では、本拠地の駅で売れない有名駅弁「峠の釜めし」のユニークなビジネスモデルは、どのように形成されたのだろうか。
「峠の釜めし」を製造販売する、荻野屋(本社・群馬県安中市)の創業は1885年(明治18年)に遡る。同年に開業した信越本線横川駅の構内で駅弁「おむすび」の販売を始めた。
全国でも栃木県宇都宮市で白木屋という旅館が全国初の駅弁を販売したのに次ぐ、古参の駅弁業者だと言われる。白木屋はもう無くなってしまったので、荻野屋は現存する最古の駅弁業者だ。
横川駅前の荻野屋本店
しかし、当初から釜めしを売っていたわけではなく、どこにでもあるような駅弁の販売業者であった。ところが戦後、1951年(昭和26年)に4代目を継いだ、故・高見沢みねじ氏は高崎と軽井沢、2つの大きな駅に挟まれた横川では、もっと特徴のある駅弁を売らなければ、競争に勝ち残れないと思案していた。
横川は当時から乗客数の少ない駅だったが、険しい碓氷峠を越えるために、機関車2両の連結作業を行っていた。そのため特急が停車する駅だったのだ。
当時は1時間と長く停車したので、他の駅よりも駅弁を販売するには十分な時間があった。最近では「峠の釜めし」を売るために特急が停まるようになったという情報もあるが、そうではなかったのだ。
社長のみねじ氏自身が駅のホームに立ち、乗客からどんな駅弁を望むのか、聞き込み調査を重ねた。今で言うマーケティングリサーチである。
その結果、「地域の名物を入れてもらいたい」、「温かいものがほしい」といった意見が多いことに着目した。とは言っても、横川に全国に知られた名産品があるわけでなく、保温となると当時はさらに困難だった。
そうした時に、栃木県の益子焼の窯元である、つかもとが、新しく開発した土釜を弁当容器に使えないかと売り込みにきた。百貨店の提案でつくったものの不採用となり、他の業者にも売り込んだが、どこも使ってくれないのだという。
みねじ氏はこの土釜に感じ入るところがあり、山の幸をふんだんに使った釜めしの容器に使うと、斬新な名物駅弁ができるのではないかと閃いた。名物がないのなら、新たに創ろうと発想の転換をしたわけだ。陶器なら保温性も高い。そうして開発した商品が、「峠の釜めし」なのであった。
土釜に釜めしを入れると、何とも言えない郷愁が漂ってくるのも、採用のポイントであった。
具材は、国産若鶏、シイタケ、ゴボウ、栗、杏、タケノコ、ウズラの卵、グリーンピースに、紅ショウガ。別途で香の物が付く。ご飯は厳選したコシヒカリを自家精米し、利尻昆布と秘伝のダシで香り豊かに炊き上げた。
陶器に入った駅弁は、前代未聞。それゆえ、国鉄からなかなか販売の許可をもらえなかった。みねじ氏は何度も高崎の支社に通ったが、顧客が食べ終わって窓から器を捨てたら危険だと、はねつけられた。
ところが横川駅の駅長が試作された「峠の釜めし」をいたく気に入り、「駅の名物になるから」と間に入ってくれて、ようやく販売が認められた。発売は1958年のことであった。
しかし、自信を持って発売したものの当初は全く売れなかった。
「峠の釜飯」は値段が高く、誰も見たこともない変わった商品だったので、顧客には理解できなかったのだという。なお、当時の販売価格は120円。かけそば1杯の値段は25円ほどだったので約5倍の値段となる。
売り子たちからの評判も悪かった。その頃は首から紐を掛けて、大きな四角い木箱の上に駅弁を30個くらい乗せて売るスタイルだったので、重くて持ち運びにくかったからだ。
かつての横川駅の販売台車
好転したのは、雑誌『文藝春秋』同年9月号の旅のコラムに掲載されたのがきっかけ。瞬く間に評判が高まり、飛ぶように売れるようになった。販売方法も台車に乗せるなど、大量に捌く工夫を凝らした。
61年には横浜高島屋の駅弁大会に出品。以降、さまざまな駅弁大会に出品している。
62年、横川駅の近くを通る国道18号線沿いに「峠の釜めしドライブイン」(現・横川店)をオープン。モータリゼーションにいち早く対応し、渋滞ができるほど賑わった。このロードサイドへの施策が、横川駅と軽井沢駅の間の線路がつながらなくなっても、売上を維持できる理由である。
さらには67年、みねじ氏をモデルとしたテレビドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)がフジテレビ系で放映され、「峠の釜めし」の人気は全国トップクラスとなって定着した。
「信越本線が横川止まりになっても、危機感はなかったですね。横川駅での販売の比率は、既にわずかになっていましたから。むしろ、93年に上信越自動車道ができた時、横川のドライブインの売上は3分の1にまで減りました。弊社も高速道路のサービスエリアに出店したので、トータルではトントンになりました」(荻野屋システムデザイン部の担当者)。
東京と長野を結ぶインフラも、新幹線や高速道路が通って激変した。それに伴って、新幹線の車内や軽井沢の駅の構内で販売したり、高速道路のサービスエリアに出店したりと、柔軟に販売チャネルを拡大している。それが、「峠の釜めし」が廃れない秘訣だろう。
そこまで、売上比率が低いのならば、横川駅の駅売りを廃止しないのかと聞くと、その考えは全くないと即座に否定された。
「信越本線で旅行をした想い出を懐かしんで購入される人が多いですから、駅売りは無くせません」(前出・担当者)。
あくまで駅弁であることが、「峠の釜めし」のアイデンティティなのだ。
多くの観光客で賑わう横川店
ドライブインの横川店は、釜めしなどの駅弁や定食が楽しめるレストランの他、カフェ、群馬県や長野県の名産品が揃うお土産物売場が完備しており、観光シーズンには大型観光バスが立ち寄り、土日や祝祭日のお昼時には600席が満席になる日も多い。
今も昔も、「峠の釜めし」は軽井沢の観光に組み込まれ、ワンセットと考えられている。近年は、台湾をはじめアジア圏からのインバウンドの顧客が増えており、海外にもファンを獲得している。
一方、本店は横川駅の改札を出てすぐの創業の地にある。道向いには「荻野屋資料館」があって、横川駅が特急の停車駅であった頃の懐かしい写真、同社の駅弁の変遷などが展示されている。
それ以外の直営店は、諏訪店(長野県諏訪市)や横川サービスエリア店(上り線、群馬県安中市)などのドライブイン形式の店舗。他に、富岡製糸場前店(群馬県富岡市)、清里駅売店(山梨県北杜市)、軽井沢駅売店(長野県軽井沢町)などへと広がっている。
ここまで見ると順調のような荻野屋の経営であるが、課題として駅弁を食べながら旅行する列車を使っての長旅が廃れたこともあり、若い人からの知名度が下降している厳しい現実がある。対策として、ローソンとのおにぎりなどのコラボ企画が14年から期間限定で継続している。
また、2017年には「GINZA SIX(ギンザ シックス)」に出店。銀座の百貨店では、歌舞伎座で歌舞伎を鑑賞する人に、高額な弁当が良く売れる。元々、幕の内弁当は江戸時代に歌舞伎の役者やスタッフのために考案され、鑑賞する観客向けにも売り出されるようになったと、伝えられる。なかなか考えた立地だ。
荻野屋GINZA SIX店
さらに、新たな市場の掘り起こしとしては、企業の会議用や、テレビ局や映画のロケ用の弁当重要が広がっているので、首都圏向けに法人営業を強化していく方針だ。
荻野屋では、「峠の釜めし」以外にも約20種類もの弁当のラインナップがあり、各企業に売り込みをはかっている。それら数々の弁当のショールームとして、「GINZA SIX」の店が機能を果たしているのだ。
明治中期に鉄道駅の開業と共に生まれた荻野屋は、戦後に「峠の釜めし」という大ヒット駅弁を生み、平成には主たる販売ルートを駅からロードサイドと駅弁大会に移した。そして、令和の今、インバウンドや会議用弁当・ロケ弁当へと販路をより拡大しつつある。
13年には益子焼の器が重い、処理に困るといった顧客の要望にこたえ、パルプモールド(再資源化紙成型品)容器に入った「峠の釜めし」も発売した。老舗・荻野屋の時代の変化に対して柔軟に寄り添う、さらなる進化に期待したい。