転勤族の父に伴い20ヵ所以上渡り歩き…。学校も職も転々とした女性の老後は

あのとき、あの選択をしなかったら……。今の私は少し違っていたかもしれない。転勤族の家に生まれたことが「ハズレクジ」だったという美佳子さん(仮名・68歳)の、歩んできた道は――(「読者体験手記」より)
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私の人生における「ハズレクジ」の一つは転勤族の家に生まれたことである。父は国家公務員で、40年以上、コツコツと真面目に職務をまっとうし、私たち家族を養い続けてきた。その点では私も大いに感謝している。
しかし全国各地を平均2年のペースで転々としていたことが、仕事にも結婚にも響いている、とつい思ってしまう。責任の半分以上は私自身の意志の弱さ、計画性のなさに起因しているとわかってはいるものの……。
父が30年前に定年を迎えるまで、私は父の転勤に伴い20ヵ所以上、各地を渡り歩いた。職場の同僚たちは「いろんなところを見てまわれて羨ましい」と口々に言う。しかし楽しい面以上に、やっと慣れてきた学校や会社をかわるのはそれだけで重い負担であり、淋しさや次の土地への不安が絶えずつきまとった。
小学校は4回、中学校は3回転校、高校も本当なら1年ずつ転校するはずだったが、祖母と一緒に伯父の家に世話になり、転校せずに済んだ。短大は親元から通えたが、卒業後にせっかく入社した自動車会社も1年あまりで退社。次に福島で勤めた住宅会社は1年で退社し、栃木で自動車会社に2年弱勤めて2回ボーナスをいただくと、今度は長野に飛んだ。
栃木までは年齢的に若かったこともあり運良く正社員として働くことができたが、長野以降は、すべてパートの身分だった。
この頃から私の心の中は、「どうせ正社員になって頑張っても、またそのうち退社しなければならない」と、意欲喪失、諦めの心境へと変わっていった。
私にもう少しファイトやタフな心が備わっていれば、親から独立して、一人で正社員として働き続けようと思ったかもしれない。しかし一人っ子として育ち、両親や祖母が常に存在していた環境を飛び出すのは容易なことではなかった。父親の単身赴任はまだ珍しい時代でもある。
高度成長期の余波が残っていた当時、どの地へ移っても高望みをしなければパートの口は簡単にみつかり、すぐに働けた。そのことが私の心から、将来に対する堅実な考えや計画性を遠ざけたのかもしれない。パートの身分では厚生年金への加入もできないため、せめて老後に備え安い給料の中から国民年金だけはきちんと払い続けた。
そんななか、20代の私はバイト代を貯めては憧れの京都に何度も旅をしたり、会社で宴会や課内旅行があれば積極的に参加し青春を謳歌していた。
最初に勤めた会社では結婚まで考えた人もいたが、私自身の迷いや両親の反対もあって結局は実らず、その後、転々としている間に結婚の縁も途切れてしまった。もしせめて1ヵ所に5~6年も住んでいれば、社内で相手もみつかったのかもしれない。
20代後半に住んでいた横浜での仕事は、デスクワークだけでなく外回りもしていて、横浜の地理に精通できる点も大いに気に入っていた。ところがまたしても2年足らずで父の転勤が決まる。定年間近だったため、これが現役最後の地と言えた。この時ばかりは残るべきか、ついていくべきか大いに悩んだ。
横浜の会社には私の憧れの君もおり、プライベートで少しずつ話を交わす機会も増えていたが、結婚までのプロセスは遠く、それが一つのネックとなっていた。両親は一人で暮らせる自信があるなら自活してもいいとは言ってくれたが、その会社でも私はバイト身分。高い家賃を支払ってまで残るには経済的に負担が大きい。
また今度の引っ越し先が横浜から遠く離れた四国とあって、いざ何かあった時、互いに間に合うのかという不安もあり、結局はこれまで通りついていくことにした。
地方都市に移ったことで人生のハズレクジは決定的となった。私の年齢が30歳を超えていたこともあるが、大都市と違い、求人数が圧倒的に少なく、それまであまり苦労せず次々に職に就けたことがまるで夢みたいに感じられた。
毎朝新聞の求人欄をチェックし、ハローワークにも足繁く通ったがなかなかみつからず、ついにヤケを起こしてしまい、両親と何度も言い争いをした。そのたびに横浜に残ればよかったと後悔したものである。
父が定年になった時、私は30代半ばをとうに過ぎていた。父が終の棲家として建売住宅を求め、私は根なし草のようなデラシネ暮らしから解放された気分となった。
片付けも何とか済ませ、周囲の状況もわかり始めた半年後、今度は私自身の求職活動に奔走した。もう結婚の夢は破れ、自分の身仕舞ができるくらいのお金は働いて稼がねばと強く感じていた。
ハローワークに通って求人票を見ていると、パートだが一般事務で交通至便、しかも私の好きな保険会社があり、絶対に入社したいと願った。年齢は応募条件を1歳超えていたが、面接にこぎつけ、採用となった。
以来22年あまりその企業にお世話になり、無事60歳で定年を迎えた。しかし20年働けど一銭の退職金ももらえず、規定なので致し方ないと考えてはいるが情けない思いは募る。
受給する年金はまさに小遣いギリギリ。親と同居しているので何とか食べていけるが、その分老いた両親の介護にあけくれ、心休まる時がない。これも半分は身から出たサビ、デラシネ生活のツケが回ってきたと諦めている。
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