なぜ高裁は「裁判員の死刑判決」をひっくり返すのか?【“無期落とし”はついに7件】

裁判員制度は本当に必要なのか。
こう言いたくもなる刑事裁判の判決が先月、大阪高裁で言い渡された。裁判員が加わって審理した1審で出された死刑判決を破棄し、無期懲役を選択したのだ。同様の「無期落とし」のケースは今回で7例目。一般市民から選ばれた裁判員が苦悶して導き出した極刑判断が、裁判官だけの2審で覆されるケースが相次げば、裁判員の存在意義が問われることになる。
《淡路島5人殺害》高裁は「心神耗弱」と認定
今年1月27日。兵庫県の淡路島で2015年に近隣の男女5人(当時59~84歳)が次々と刺殺された事件で、大阪高裁は、殺人罪などに問われた平野達彦被告に死刑を言い渡した1審・神戸地裁の裁判員判決を破棄し、無期懲役とした。裁判長は、村山浩昭氏。あの袴田事件の再審請求審で14年に再審開始決定を出し、大きな話題を呼んだ裁判官だ(この再審開始決定は、東京高裁が18年に再審開始を取り消した)。
平野被告は15年3月9日、洲本市の自宅近くの民家で、住人男性(当時82歳)と妻(同79歳)をサバイバルナイフで刺して殺害。別の民家でも男性(同62歳)と妻(同59歳)、母親(同84歳)を同様に殺害したとして起訴されていた。
平野被告は精神障害による入通院歴があったものの、1審判決は「病気は事件時の行動に大きな影響を与えていない」と完全責任能力を認めたが、2審判決は今回、「妄想の影響が強く、事件当時は行動制御能力が著しく減退していた」として心神耗弱だったと結論づけた。
《熊谷ペルー人6人殺害》高裁は心神耗弱認定「被告は命を狙われると妄想」
同様の判決は、実は昨年12月にも出されたばかりだ。埼玉県熊谷市で15年に小学生2人を含む6人が次々と殺害された事件で、東京高裁(大熊一之裁判長)は、殺人罪などに問われたペルー人、ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告に死刑を言い渡した1審・さいたま地裁の裁判員判決を破棄し、無期懲役とした。
ナカダ被告は15年9月14~16日、金品を奪う目的で熊谷市内の3軒の住宅に侵入し、住人男性(当時55歳)と妻(同53歳)、住人女性(同84歳)、住人女性(同41歳)と長女(同10歳)、次女(同7歳)の6人を包丁で刺して殺害したとして起訴されていた。
被告は公判前の精神鑑定で統合失調症と診断されたものの、1審判決は「事件当時、善悪の判断能力や行動制御能力が著しく劣った状態にはなかった」として完全責任能力を認めたが、2審判決は「事件時、被告は追跡者から命を狙われるとの妄想を抱き、被害者を追跡者とみなして殺害行為に及んだ疑いが十分に残る」などとして心神耗弱の状態にあったと認定した。
ともに事件による死者数は5人・6人と多く、過去の量刑相場では死刑が言い渡される可能性の高い事案だ。しかし、どちらも責任能力に関する判断で減刑されることになった。事件時の被告の判断能力を有罪・無罪に反映させる「刑事責任能力」は、専門性の高い領域だが、1審の裁判員も当然、共に審理した裁判官とともに十分な検討をした上で結論を出しているはずだ。事件の被害者遺族らが、相次ぐ高裁の減刑判断を批判するのも理解できる。
5例目まではすでに最高裁で「無期懲役」が確定
1審の裁判員裁判による死刑判決が2審で無期に覆ったケースの5例目までは、既に最高裁が2審を支持する形で、いずれも無期懲役が確定している。今回の2件は、結局、検察側が上告を断念しており、最高裁で再び死刑が選択される余地はなくなった(いずれも弁護側のみが上告しており、最高裁は今後、無期懲役か無罪かを判断することになる)。
死刑求刑事件は、裁判官だけで審理すべき?
裁判員制度は昨年5月に丸10年を迎え、報道のトーンはいずれも「おおむね順調な運用がなされている」との評価だ。しかし、上記2件の「無期落とし」判決はその後に出され、再び議論が起こりそうだ。
一般市民から選ばれる裁判員は、日常生活を犠牲にして裁判員裁判に臨み、専門性の高い難しい判断も迫られるのに、審理日数が多い重大事件ほど高裁で覆される。ある裁判官は「死刑判断だけは、裁判員制度の趣旨である『市民感覚の反映』をしてもなお、慎重な判断が必要だ」と話す。つまり、死刑判決だけは、裁判員による判断でも破棄することは十分にあり得るということだ。であれば、死刑求刑が想定される事件は、裁判官だけで審理すればいいのではないかとの見解もあるだろう。
一方で、裁判員裁判は、故意に人を死亡させた事件に適用される罪(殺人や傷害致死、危険運転致死など)以外に、最高刑が死刑か無期の罪にも適用される。このため、通貨偽造なども裁判員対象事件となるが、果たして「市民感覚の反映」が必要といえるのか、やや疑問が残る。芸能人が裁かれることもままあり、社会的な注目度が高い薬物使用事件や悪質な逃亡事案も起こる痴漢事件は裁判員対象事件ではないが、市民感覚が反映できそうにも思える。
昨年5月に制度開始から丸10年の節目を迎えたばかりとあって、マスメディアの裁判員裁判に対する注目度は下がるだろう。しかし、折に触れて制度の是非について議論を進めていく必要がある。
(平野 太鳳/週刊文春デジタル)