その心情は、簡単にはつかめない。
〈2018年6月6日、私は娘を死なせたということで逮捕された。いや「死なせた」のではなく「殺した」と言われても当然の結果で、「逮捕された」のではなく「逮捕していただいた」と言った方が正確なのかもしれない〉
2年前、東京・目黒のアパートで無残な死を迎えた船戸結愛(当時5歳)の母、優里は事件発生の3か月後、香川県の実家で逮捕された。捕まったことに安堵する、という独特の気持ちを優里は、こう表現した。
2月7日に優里が出版した手記『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』の一節である。裁判終結前の被告が自らの胸中を明かした手記を出版するのは異例である。
体中に170か所の傷痕やアザがあった
結愛は、わずかな食事しか与えられなかった栄養不足と暴行で免疫力が低下し、肺炎を患い敗血症を引き起こして亡くなった。最後に計測した死の1か月余り前と比べ体重の4分の1が失われており、体中に新旧170か所の傷痕やアザがあった。
直接の原因は養父、雄大の暴力と食事制限による虐待にある。東京地裁は昨年10月、保護責任者遺棄致死、傷害、大麻取締法違反の罪で懲役13年の刑を下し、確定している。
もちろん、これを見逃し続けた優里の不作為の責任も非難されていたしかたない。地裁は「雄大から心理的DVを受け、雄大からの心理的影響を強く受けていた」と認定はしたが、「強固に支配されていたとまでは言えない」として、責任を大幅には減じることはせず、懲役8年の実刑。優里は控訴している。
「異常なほど愛していた」娘をなぜ助けられなかったのか?
一審の裁判を振り返ると、優里の記憶の中には、何かでブロックされたように空白の部分が存在し、問答にはかみあわないやりとりも目立った。
このため「異常なほど愛していた」という娘が同じアパートでボロボロになって死に向かっていくのに、この若い母親はどうして防ぐことができなかったのか――その真相は解明されたとは言いがたい。
手記は、逮捕後に書かれた優里の日記が元になった。自殺願望に時折襲われる複雑な内面をありのままに書き残したノートが2冊。「DVや児童虐待で傷つき、亡くなる犠牲者を1人でも少なくするために」という弁護士からの勧めもあり、手記として編まれた。
この手記と、これまでの裁判や取材を通じて知りえた事実を突き合わせながら読むと、児童相談所や病院と関わりを持ちながら、なぜSOSを発することができなかったのか――その生々しいプロセスが浮かび上がる。
今年1月半ば、東京拘置所でアクリル板越しに面会した時、優里は私にこう述べた。
「彼の影響は、まだ残っていると思います。今日も包丁を持った雄大が私を襲ってくる夢を見ました。カッターナイフを持っている時もある」
わずか2年で構築された“支配”の関係
逮捕から1年8か月が経った今も、雄大への恐れの感覚が残る。なぜこのような色濃い支配が、入籍してからわずか2年間ほどの間に構築されたのだろうか。
手掛かりは、結愛の実父である前夫との間の苦い記憶だ。高校卒業後間もなく同学年同士で結婚した前夫は結愛の誕生後も元来の浪費癖が抜けないばかりか浮気をして、14年、優里の方から離婚を求めた。離婚届を書かせて立ち上がった時、男は性行為の際のおとなしさを揶揄する暴言を吐いた。
「お前はマグロだからな」
手記には戸惑いが記されている。
〈なんでそんなこと言うの、なんで笑っているの、好きな人と性行為をする時、積極的になれないことがそんなにダメだったの?〉
「楽しい記憶なんて一つもないような寂しい人生」
心の傷を癒そうとその後、愛のない相手と関係を持ったこともある。だが前夫の影も消えない。前夫は養育費を払わないどころか、金をせびった。脅し口調なので断れない、という優里の身の上話に耳を傾けてくれ、「利用されているだけ」と気づかせてくれたのが、当時勤めていた夜の店のボーイ、雄大だった。
岡山県出身で北海道育ちの雄大は東京の大学を出て大手企業に就職。7年ほど勤めるがなじめず、札幌に転勤した後に退職した。転じて働いた歓楽街の知人の伝手で、香川県の店に働くようになっていた。
就職先では挫折した雄大だが、優里にとっては都会的で物知りな男性と映り、結愛と自分を導いてほしい、と思うようになっていた。
〈結愛には私みたいにデブでブスで、人に利用されて捨てられるつまらない人間になってほしくなかった。彼の言う通り、私みたいに友達が少なくてまわりからバカだと思われ、振り返れば楽しい記憶なんて一つもないような寂しい人生、結愛には絶対に歩ませたくなかった〉
しかし、今度はその雄大が、優里の“弱いところ”につけ込むようになる。
雄大は入籍後に「結愛をしつけろ」と言って優里に連日3時間も説教を始めた。抗弁すれば説教は長引いてしまい、最後は「お前のため、結愛のためなんだ」と繰り返された。
優里の心が砕かれるのは16年11月、雄大が怒りに任せ4歳の結愛の腹を思い切り蹴り上げる。やめてと叫ぶと「かばう意味が分からない」と言い募った。
「男の前で股広げる女にしたいのか」
その後、同年12月と翌17年3月に2度、結愛は行政に保護される。その頃、耐えきれなくなった優里は勇気を振り絞って「やりすぎだ」と言ったが、雄大はやり込めた。
「お前のようになっていいのか。バカで男に利用されて捨てられて男の前で股広げる女にしたいのか」
歯を食いしばるだけで、優里はあがらうことができない。そして結愛を苦しめている辛さを紛らわせるため自傷行為や過食嘔吐を繰り返すようになる。精神科医の診察も受けたが服用する下剤の量を聞かれただけで「もっと苦しんでいる人はいる」と言われ、自分の努力が足りないのだ、と考えるに至る。
〈どうせ私はマイナス100の人間だ。いくら頑張ったって何の取り柄もないゼロの人にすらなれない。彼はよく言っていた。
「まわりで楽しそうに生き生きしている主婦とお前は違う。あの人たちは陰で努力をしているからこそ、表で余裕のある振る舞いができているんだ。みんな楽しているように見えて苦労している。お前はマイナス100の人間なんだから、少し頑張ったくらいで調子に乗るな。勘違いするなよ」〉
そして結愛ちゃんは亡くなった
東京で暮らし始めて1か月、結愛の面倒は雄大が見ると決められ、一日のうち母娘がいたわりあえるのは朝の数時間のみだった。そして優里が見ていないところで行われた雄大の暴行で結愛の体調は急変する。死に至る数日前、一時だけ結愛の求めでそのそばに近寄ることを許された。その時の手記。
〈私は嬉しくて、すぐ結愛のそばに行ったよ。そして手をさすったよね。その時に腕に赤い斑点があった。これなんだろうって、すぐにスマホで調べた。そしたら、高齢者によく出る、栄養失調の斑点に似ていた。もう食事を戻すようになっていたんだから、早く病院に連れて行かなければならない。でも、そうか栄養失調か、と原因がわかったらそれで終わってしまった。本当に私どうかしている〉
雄大には病院へ行かないのとは聞いたが、痣が消えたらなと拒まれると何も言えなかった。こうして、結愛は亡くなった。
逮捕から1年経ち、ようやく優里は“理解”した
妻への“支配”について雄大の供述調書にこうある。
〈優里は最初は結愛への暴力を非難していたが、私の言葉の暴力に洗脳されて意見を言えなくなったのだろう〉
この供述に自覚的に優里が向き合ったのは逮捕から約1年が経過した昨年夏。厳しい日課もしつけも「結愛のため」ではなく、雄大が快感を求めてやっていたことだ――そう理解するまで、それだけの時間を要したことになる。
手記に書かれた優里の心情と、取材によって明らかになった事実を突き合わせたレポート「 『結愛ちゃん母』慟哭の手記 」を私は「文藝春秋」3月号および「文藝春秋digital」に寄稿した。
書き終えた翌朝に現場に向かうと、アパートは撤去され更地になってい る。敷地内に一片、黄色い規制線のテープの切れ端が落ちており、それだけが事件の痕跡のように思えた。
手記が、結愛のため、虐待で傷つく者を一人でも減らすため、と願う母親の償いの記録として残ることの意味を、改めて思った。
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(広野 真嗣/文藝春秋 2020年3月号)