今月3日、有本嘉代子さんが亡くなった。享年94。いうまでもなく、北朝鮮による拉致被害者、有本恵子さん(60)=拉致当時(23)=の御母堂である。
恵子さんは1983年に拉致された。ちょうど、私の人生と同じ年月、拉致された状態が続いていることになる。私は一人の日本国民として、言論人として、彼女を救出して、嘉代子さんにお会いいただくことができず、誠に申し訳ない思いがする。
恵子さんの拉致事件について調べていると、1つのイデオロギーの存在にぶつかる。北朝鮮の国家行動の基盤となっており、唯一思想体系と位置付けられている「主体(チュチェ)思想」である。
チュチェ思想とは、一言でいえば、北朝鮮の全人民が金日成(キム・イルソン)主席の血統を受け継ぐ者の指導を従ったときにのみ、「主体的」に生きられるという思想である。表では「主体性」を重んずる思想であるとしながら、その実態は、金一族に未来永劫(えいごう)にわたって隷従し続けなければならないという全体主義思想である。
なぜ、この主体思想が拉致問題と関係するのか?
その答えを知るために有益なのが、八尾恵氏の著書『謝罪します』(文芸春秋)だ。この八尾氏こそ、恵子さんを拉致した張本人であり、著書で日本人拉致工作の全容を記しているのだ。八尾氏が拉致に関与するようになった背景には主体思想が存在した。
八尾氏が20歳のとき、友人に在日朝鮮人が多かった長兄から「朝鮮映画を観る会」に誘われた。この映画はいわゆる「抗日映画」であった。この映画に感動した八尾氏は「日本青年チュチェ思想研究会」というサークルに顔を出すようになった。
その後、八尾氏は「実践的な活動ができる」ということで、家族にも告げずに北朝鮮に飛び立つ。徹底した洗脳教育を受け、主体思想に染まりきった八尾氏はヨーロッパにおける日本人拉致に手を染めるようになっていく。
恵子さんを拉致したことを反省するのではなく、「なぜ、有本さんが革命思想に染まらないのか」を心配していたというのだから、主体思想による洗脳がいかに恐ろしいものであるか理解できるだろう。
そんな八尾氏の良心が目覚めたのは、地下鉄サリン事件(1995年)だった。「私が命懸けで信じ守り抜いてきた思想も活動も、『何から何まで本質的にはオウムと同じだ』と直感」したのだという。
われわれは自分自身の意志が強く、自我が強固だと信じて生きている。しかしながら、人間の自我とは実にもろいものだ。その人間の弱さに付け込み、徹底した洗脳教育によって「革命戦士」を育てるのが主体思想だ。
拉致問題を考える際、主体思想という観点から考え直してみる必要を痛切に感じている。
■岩田温(いわた・あつし) 1983年、静岡県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、同大学院修士課程修了。拓殖大学客員研究員などを経て、現在、大和大学政治経済学部政治行政学科専任講師。専攻は政治哲学。著書・共著に『「リベラル」という病』(彩図社)、『偽善者の見破り方リベラル・メディアの「おかしな議論」を斬る』(イースト・プレス)、『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(扶桑社)など。