原発事故で取り残され……「牛は悲鳴をあげて餓死した」南相馬市の元酪農家が語る“9年間の悔恨”

1枚の写真がある。
荒々しく削られて細り、ささくれた「柱」を撮影したものだ。牛舎で牛をつないでいた柱である。
なぜ、そのようになったのか。(全2回の1回目/ 後編に続く )
東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故から半年が経過しようとしていた2011年夏。福島県南相馬市の元酪農家、半杭(はんぐい)一成さん(70)は、泣く泣くミイラ化した牛の埋却作業を行っていた。
半杭さんは自宅で40頭の乳牛を飼っていたが、原発から20km圏の避難指示エリアに入ったため、牛を置いて逃げざるを得なかった。最初は住民の消えたまちでとどまっていたが、原発の爆発・火災事故が相次ぎ、とても残っていられる状態ではなくなったのだ。
餓死した牛たちの痕跡
牛は牛舎でつながれたまま飢えて、死んだ。政府はそうして死んだ大量の牛を、牧草地などに埋却する方針を打ち出し、半杭さんも防護服を着て作業に当たった。ずらりミイラ化した牛を運び出すと、閑散とした牛舎で柱だけが目立つ。その時、柱の「変形」に気づいた半杭さんは、愕然とした。
牛は食べるものがなくなり、木の柱までかじったのだと、すぐに分かった。最後まで生きようと、必死であがいた痕跡が刻まれていたのだ。「牛さんに悪いことをした。本当に申し訳ないことをしてしまった……」
止めどなく涙があふれ、立ち尽くすしかなかった。
飼っていた牛を「牛さん」と呼ぶほど可愛がっていたからこそ、悔恨が募る。半杭さんは柱を撮影し、プリントした写真をバッグに入れて、肌身離さず持ち歩くようになった。
あれから9年の歳月が経ち、写真は半ば破れてボロボロになった。それでも写真を見るたびに目頭が熱くなる――。
自宅が倒れそうなほどの大地震
半杭さんが住んでいたのは、南相馬市の小高(おだか)区(旧小高町)だ。平成大合併で1市2町が一緒になった南相馬市では、一番南に位置している。さらにその南に浪江町があり、双葉町、大熊町と続く。
東電福島第1原発は双葉・大熊の2町にまたがって立地している。小高区役所(旧小高町役場)から16kmの距離だ。
あの日、2011年3月11日午後2時46分、大地震が起きた。半杭さんは自宅前の牧草地で、買ったばかりのトラクターを試運転していた。「揺れはいつまで経っても止みません。ああ、もう2階建ての自宅が倒れてしまう。いい加減に収まってくれと、必死で祈りました」
隣家では石蔵が音を立てて崩れ、ぺしゃんこになった。
揺れが収まると、酪農家はすぐにやらなければならないことがある。乳搾りだ。停電したら搾乳機が使えなくなるので、そうなる前に搾れるだけ搾っておく必要があった。
幸いなことに、半杭さんの牛舎は停電せず、余震が続く中で何とか乳搾りを終えた。ところが、福島県酪農協同組合の施設が壊れて集乳できないと連絡があった。牛は毎日、乳を搾らなければ、乳房炎を起こす。半杭さんはこの日から、捨てるためだけに乳を搾り続けることになった。
津波が海岸の集落を呑み込んだ
小高区は被災時の人口が1万3000人弱だった。東西12kmの小ぢんまりしたまちながらも、東は太平洋に面し、西は阿武隈の山々に抱かれて変化に富んでいた。半杭家は海から10kmほど離れた山の麓にあり、急いで乳搾りをしていた半杭さんは知らなかったが、津波が海岸の集落を呑み込み、海から3・5kmほど離れた区役所の近くにまで押し寄せていた。市内全体では約40平方kmが浸水し、636人が亡くなった。
当時、市職員として小高区役所で働いていた半杭さんの妻昌子さん(67)は「泥だらけになった人が何人も助けを求めて来ました。着替えの備蓄はないので、職員用の作業着を渡しました」と話す。昌子さんは徹夜で被災者対策に当たった。
小高区を襲った「危機」はこれだけではなかった。福島第1原発で原子炉の暴走が始まっていた。
このため政府は翌12日早朝、同原発から10km圏に避難指示を出し、南隣の浪江町まで避難区域に入った。「家の近くの道路を避難する車が列をなしていました」と半杭さんは振り返る。ただ、この時も原発事故の影響が自分の身に降りかかるとは考えていなかった。
「まだ小高にいるの?」「早く逃げて」
同日午後3時36分、福島第1原発に6基ある原子炉のうち、1号機の建屋で爆発が起きた。政府は午後6時25分、避難指示区域を20km圏に拡大し、小高区は全域がそのエリアに入った。住民は避難所にいた人も含めて一斉に逃げた。昌子さんら市職員も小高区役所を引き払い、原発から25km離れた原町区(旧原町市)の南相馬市役所の本庁舎に撤退した。
ところが、避難しない人がいた。家畜を放置できない畜産農家だ。半杭さんもそのうちの1人だった。ひとけがなくなった小高区で、いつも通り牛の世話を続けた。半杭さんは妻と2人暮らしだったが、妻は災害対策に掛かりきりで帰って来ない。1人で家と牛を守った。
事態は悪化の一途をたどる。2日後の14日午前11時1分、福島第1原発で3号機の建屋が爆発した。独立して一家を構えていた娘や息子から「まだ小高にいるの?」「早く逃げて」と、引っ切りなしに携帯電話のメールが入った。
畜産農家も次第に浮足立っていった。この日の夕方、仲間の酪農家が「もう限界だ。俺は牛を置いて避難する」と伝えに来た。半杭さんが住む「大富」という集落では、5軒の酪農家が「大富酪農研究会」を作っており、その仲間だった。
同研究会は1970年、米の減反政策をきっかけに結成した。機械の共同利用や共同作業を行い、先進的な酪農集団として県内外から注目を浴びてきた。5軒は急きょ、話し合いを持ち、「これ以上残っていては、我々の命にかかわる。避難するしかない」と全員で決めた。
「ただ、1週間ぐらいで帰ってくるつもりでした。それでも母牛は乳房炎にかかって廃用にせざるを得なくなるだろうと覚悟しました。私が所有していた40頭の中には、育成中の若牛が10頭いました。この10頭があれば、再起はできると腹を決めました」と半杭さんは話す。
物流が途絶え、食料まで枯渇
5軒の避難先は東京、福岡、仙台、県内でも100km以上離れた会津などとバラバラで、研究会はこの日を最後に実質的に解散状態に追い込まれた。40年以上にわたる活動はあっけなく終わらされた。
半杭さんは一度牛に餌をやってから、牛舎のシャッターを閉めて、家を出た。とりあえず市役所のある原町区に移動して夜を明かした。
次の朝、すなわち15日は、福島第1原発の2号機と4号機で爆発と火災が起きた。1号機と3号機に続き、全6基のうち計4基の暴走が止まらなくなったのだ。
政府は原発から20km圏への避難指示に加え、30km圏にも屋内退避の指示を出した。この屋内退避エリアに入った南相馬市役所は身動きが取れなくなった。市内では軒並み店が閉まり、物流も途絶えて食料まで枯渇した。市内に残った人は籠城しようにもできなくなっていった。
半杭さんは、市役所で缶詰になっていた妻を置いて逃げることにした。
牛舎から聞こえていた“悲鳴”
15日朝、重要な書類などを取りに一度自宅へ戻り、15歳の老犬を車に乗せて、70kmほど離れた福島市の息子宅へ向かった。牛舎には猫が20匹住み着いていたが、「自分で餌を見つけて生き延びるだろう」と置いていった。
17日には自衛隊の決死隊がヘリコプターで原発に放水したものの、効果はなかった。南相馬市役所は18日から、小高区以外の住民も対象に、新潟県や群馬県へ向けて避難のためのバスを走らせた。半杭さんはそうした報道を息子宅のテレビで見ていて、「避難は1週間では済まない」と焦った。
頭をよぎるのは牛のことばかりだ。「餌をやりに行きたい」と何度も思った。親類や知人からは、半杭さんの安否を確認する携帯電話がひっきりなしに入る。そうした時に必ず言われるのは「牛はどうした」という言葉だった。涙があふれて、答えられなかった。避難時に持ってきた酪農関係の雑誌を見ただけでも涙が出る。あまりに泣いてばかりだからと、雑誌は孫に取り上げられた。
後の話になるが、半杭さんの家の近くに行った人から「牛舎でものすごい鳴き声がしていた」と聞かされた。半杭さんにはそれが「鳴き声ではなく、悲鳴を上げていたのだ」と分かった。涙が止まらなかった。
半杭さん自身が自宅に立ち寄ったのは、避難から1カ月以上経った4月21日だ。避難指示区域が翌日から「警戒区域」とされ、バリケードが設けられて出入りが完全に遮断されるという日だった。
親類の結婚式があるので式服を取りに行ったのだが、牛舎には立ち寄らず、逃げるようにして福島市の息子宅へ戻った。「まだ牛の鳴き声がかすかに聞こえていました。でも、牛舎のシャッターを開けて中の様子を見る勇気はありませんでした」と、うめくように語る。
半杭さんは4月中に福島市から原町区へ帰り、妻と合流した。そして6月10日、初めて牛舎へ入った。市役所に頼まれ、大富酪農研究会のメンバー2人で、動物の保健所に当たる県家畜保健衛生所の幹部を案内したのだ。
ミイラ化した牛の死骸を豚が食べていた
まず、50頭ほど飼育していた隣家の牛舎へ入った。乳牛の牛舎には、首を挟んで固定する金具「スタンチョン」がある。「スタンチョンに首を挟まれたままミイラ化した牛の死骸がずらりと並んでいました。どこの豚舎から逃げてきたのか、その死骸を豚が食べていました」と半杭さんは話す。
よく見回すと、1頭の子牛が生きていた。避難の後で生まれたらしい。母牛の死骸の後ろにポツンと立っていた。母牛は他の牛より長く生きていたらしく、腐敗が遅れていた。「子牛におっぱいを飲ませようと、歯を食いしばって生きていたのか」と思うと、胸が苦しくなった。
次に半杭さんの牛舎へ回った。シャッターを開けると一面、真っ黒に見えた。暗かったのではない。視界がきかないほどハエが発生していたのだ。牛の死骸もウジ虫に埋もれんばかりだった。
「もう牛には見えませんでした。家族同然だったのに、涙も出ませんでした」
「どれだけひもじかったことか」
猫も20匹のうち2匹しか生きていなかった。牛舎の回りには、たくさんの小さな骨があった。ただ、牛は6頭が牛舎の外で生きていた。もがいているうちにスタンチョンがはずれたのかもしれない。他の牧場から逃げて来た黒毛の和牛も何頭か一緒にいた。
牛の死骸はその後、牧場の一角に穴を掘って埋めた。その埋却作業の後、がらんとした牛舎で目にしたのが、写真にして持ち歩いている柱だった。「牛の前歯は下にしかありません。上は歯ぐきだけです。なのに、あそこまでかじり取ったのだから、どれだけひもじかったことか」
変形した柱は1本だけではなかった。多くの柱がかじられて、中には半分ほどの細さになったものもあった。首の届く範囲を必死でかじった牛の命が、それぞれの柱に刻まれていた。
「避難する時、牛舎から牛を放せば、生き延びたのに」と批判する人がいる。だが、半杭さんにはできなかった。無人の家に入り込み、餌を探して荒らすのが分かっていたからだ。半杭さんは農家である前に、地域の一員として何代も生きてきた住民だ。周囲の理解あってこその酪農だった。
しかし、避難区域では誰が放したのか、多くの「放れ牛」や「放れ豚」が群を作った。野生化した家畜は、予想通り不在になった家のガラスを割るなどして侵入し、屋内を糞だらけにした。人や車に突進してくることもあった。
「怖い」「もう家に帰れる状態ではなくなった」という声が避難者から漏れた。餌にならないものを食べるなどして死ぬ牛もかなりいた。
罠を仕掛けて牛や豚を捕獲し、安楽死させる
そこで、半杭さんら大富酪農研究会のメンバーは、県家畜保健衛生所の獣医らと一緒に、防護服に身を包んで避難区域へ入り、「放れ牛」や「放れ豚」を捕まえた。避難区域では畜産農家と行政職員が捕獲の役割を担わされたのだ。
乳牛はおっとりしているので、ロープで捕まえられた。気性の荒い和牛はそうはいかない。突進してきて、防護服をボロボロにされた獣医もいた。大きな豚に直撃され、突き飛ばされた人もいる。
だが、「人が戻れる土地」にするには、何としても捕まえなければならなかった。罠を仕掛けて捕獲し、安楽死させて埋めた。こうして殺処分された牛は、餓死したのも含めると避難区域全体で3000頭をはるかに超えるとみられている。
ただし、半杭さんらが捕まえたうちの約100頭は、半杭さんと隣家の牧場の2カ所に囲いをして飼育した。複数の大学から市に、原発事故で被災した牛の研究をしたいという申し出があったからだ。このため大富酪農研究会を中心にして「家畜飼養管理組合」を作った。
飼育のための経費を大学が出したのは初期だけだった。このため翌年、家畜飼養管理組合を母体にして、NPOを結成し、餌代などを集めた。NPOの理事長には半杭さんが就任した。
「牛を見殺しにしてしまった」
そうして2年ほど経過すると、牛は研究で解剖されたり、体調を崩して死んだりして、約30頭にまで減った。何とか生き延びさせたお気に入りの牛が死んでしまい、再び喪失感を味わった仲間もいた。
避難指示区域内の家畜は持ち出しが禁止され、たとえ生かしておいても、家畜としての「用途」は果たせない。大学の研究者の中には「このまま飼って、被災牛のサンクチュアリ(自然保護区)にしよう」と提案する人もいたが、半杭さんらは断った。
牛は経済動物だ。ペットのように無目的に飼い続けることはできない。餌代もかかる。生活を再建しなければならないのに、ボランティアで飼い続けることはできなかった。しかも、小高区は避難指示区域でも放射能汚染が比較的少なかった地区が多い。除染が始まり、避難指示解除が話題になり始めていた。
半杭さんらは「私達が再スタートを切るためには、かわいそうではあっても、区切りをつけないといけない」と話し合った。残った牛は安楽死させて、被災牛の牧場を閉じた。
2016年7月12日、小高区は一部の土地を除いて避難指示が解除された。半杭さんは半ば壊れた自宅を解体し、この年のうちに新しく家を建てた。そして、市役所を定年退職していた昌子さんと2人で帰還した。
しかし、酪農を再開する気にはならなかった。「牛を置いて逃げ、見殺しにしてしまった」という心の傷が深すぎたのだ。
避難指示解除後も、酪農は再開しなかった
隣の集落の酪農家は、父と息子で飼っていた180頭の乳牛を餓死させた。半杭さんはこの酪農家の息子が「福島第1原発の廃炉作業が始まったが、また暴走して避難することになるかもしれない。二度とあのような思いはしたくないから飼わない」と語るのを聞いて、その通りだと思った。
父子の牛舎では避難中、勝手に入った人が牛の死骸を撮影してインターネットで流した。それを見た父がショックを受けて体調を崩し、入院した。ただでさえ傷ついていたのに、心をえぐられる思いだった。酪農家を苦しめたのは東電ばかりではない。
避難指示の解除後、大富酪農研究会のメンバーも次々と帰還したが、5軒とも酪農は再開しなかった。「誰も牛の話をしません。したくないし、できないのです」と半杭さんが説明する。
気持ちの問題ばかりではない。原発事故から9年が経ち、酪農家としては引退時期を迎えた人もいる。小高区内では他の農業の再開も進んでおらず、牛舎の敷き藁(わら)が手に入りにくくなった。設備も直さなければならず、巨額の費用が必要になる。
にもかかわらず、牛舎は4軒が壊さずに残した。「牛が最後の命を刻んだ、あの柱がある限り、私には壊せません」。半杭さんは絞り出すように語る。
「無念」と刻まれた石碑
市のまとめでは、今年2月末時点の小高区の住民登録者数は7376人で、被災前の半分近くに減った。そのうち区内の居住者は3663人で、被災前の3割に満たない。
海岸に近い集落は津波で壊滅し、多くの人がよそに移住した。山側の集落は、区内でも放射線量が比較的高かったため、住民の帰還が進まない。大富集落では70戸のうち18戸が戻ったに過ぎない。商店がずらり軒を連ねた中心街でも、建物が解体されたままの空き地が目立つ。このため4校ある小学校は来春、1校に統合される方向だ。
半杭さんは、牛舎が見下ろせる高台に石碑を建て、牛が餓死した経緯を記して「無念」と刻んだ。「牛舎はやがて朽ちてなくなるでしょう。私ら夫婦もいずれいなくなる。でも、石に刻んでおけば、ここで起きた悲劇と無念の思いは、100年後にも伝わるはずです」
原発事故からまだ10年も経っていないというのに、私達はあの日のことを忘れ始めている。復旧すらままならず、苦しみ続けている人がたくさんいるのに、むしろ見ないようにし、聞かないようにしてこなかったか。半杭さんらの9年間と今の姿は、私達自身が胸に刻み込んでおかなければならない事実だ。
撮影=葉上太郎
( 後編に続く )
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(葉上 太郎)