前回は、第10代崇神天皇が疫病という国難に際して、まず自らの政治(まつりごと)=祭祀(さいし)を省みて、民もそれにならうことで克服したことを取り上げた。祭祀とはいわゆる神道に基づくものであるが、古代において神道が危機を迎えたかのような事象と、疫病もまた深くかかわっている。
『日本書紀』によると、第29代欽明天皇即位から13年(西暦552年)、朝鮮半島の百済より仏像や経典が献上され、これがわが国への仏教伝来となる(異説あり)。この“異教”受容までの道のりは、決して平坦(へいたん)ではなかった。
欽明天皇が群臣に下問したところ、大連(おおむらじ=朝廷で軍事を担当)の物部尾輿(もののべのおこし)らが、「外来のものを信仰すれば神々の怒りを買う」として反対したため、国家として仏像を礼拝することは断念された。仏像は、「諸外国はみな仏を礼拝しているから日本もならうべきだ」と主張した大臣(おおおみ=天皇の政治を補佐)の蘇我稲目(そがのいなめ)に与えられた。稲目は仏像を私邸に安置し、自らも修行し、寺院まで建立する。
そうしたときに国中で疫病が起こり、しかも長引いたため若死にする人が「愈(いよいよ)多、不能治療」という惨状となった。これを見て、尾輿らが「仏像を廃棄すべき」と欽明天皇に奏上し、仏像は難波(なにわ=現在の大阪市)の堀江に流し捨てられることになる。ところが今度は、風もないのに皇居に大火災が起こったという。
次の第30代敏達天皇即位から14年(同585)、稲目の子・蘇我馬子が病気となった際に、仏像を礼拝し延命を願ったところ、再び国中で疫病が発生している。
この時も、尾輿の子・物部守屋らが、先代から疫病が已まず民が死に絶えようとしているのは、蘇我氏が仏教を信仰しているからに違いないと奏上。敏達天皇もこれを認めため、守屋自身が寺を焼き打ち、焼け残った仏像はやはり難波の堀江に捨てられた。
すると雲もないのに大風が吹き、大雨が降った。さらに悪性の天然痘で亡くなる者が国中に満ちあふれ、敏達天皇や守屋までが罹患(りかん)した。そこで、馬子は三宝(仏・法・僧)の力に頼らねば治癒は難しいと上奏し、欽明天皇も馬子個人による仏教信仰を認めた。間もなく敏達天皇は崩御し、2年後に守屋が馬子との政争で敗死したのち、仏教は国家的に受容されることになる。
ここで想起されるのは、聖徳太子制定と伝わる「十七条憲法」の第2条「篤敬三宝」ではないか。これは、わが国の宗教以前の信仰である神道の存在を自明のものとしたうえで、仏教との(第1条にも書かれた)「和」を求めたものだ。外来宗教を受容する際にも、「和」の日本精神をもってせねばならないという神意と、当時受け止められたことであろう。
この度の武漢肺炎をやがて克服した日本が、人間関係がギクシャクし、政治の場で悪者探しばかりする国家になり果てていればどうであろうか。『日本書紀』に描かれた先人たちが、疫病を「和」の力で乗り越えたことにも学ぶべきである。
■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学国際交流学部講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。本業である政治外交史研究の傍らで、戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など、近著に竹田恒泰と共著『決定版 日本書紀入門-2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)など。