クルーズ船に残る謎「なぜあの日、東京の乗客を横浜駅で降ろしたのか」

※本稿は、小柳剛『パンデミック客船 「ダイヤモンド・プリンセス号」からの生還』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
6時半起床。起きて早々、気になっていたのだろう、妻がポストを念のため確認する。下船案内と上陸許可証が入っていた。下船案内、正確には「下船に関する情報」という文書一枚。書かれていることは、下船の前夜、2020年2月20日に準備するもの。下船の当日、2020年2月20日に行うことが記載されている。前夜と当日が同じ日付になっている、どっちが正しいのだ。
すぐさまフロントに電話。下船の前夜の日付は2020年2月19日の間違いだと言う。では下船日は正しいのかと聞くと本日20日との答え。7時半までに荷物にタグをつけ廊下に出せと言う。荷造りはこれからなのに無理に決まっているじゃないか、どうして通知書を昨日ちゃんと届けてくれないのか、ほぼ怒鳴り声で言う。フロントの男性は慣れたもので、声色を変えずに、ではできるだけ早くにと言いかえる。荷物につけるタグの枚数が足りないので、持ってきてほしいというところで電話は終了。
まず落ちつこう。歯を磨き、顔を洗うことでルーティンの行動にもどろう。偶然なのだろうか、今日は朝食が早くに来た。しかし先に、前日荷造りの終わっていた荷物にタグをつけ廊下に出す準備。タグには一枚一枚、住所、電話番号を記入しなければならない。マットを入れて4個分廊下に並べる。
それからおもむろに食事。ほとんど食欲なしなのだが、ジュース、ヨーグルト、コーヒーだけは定番として食べ、飲んだ。妻も口に入れたのは私と同じもの、パン類をほとんど残した。食べ終わるとすぐ荷造りに取りかかる。廊下にすべての荷物を運び出せたのは、10時近かっただろうか。前日、一部の荷造りをしておいたため、時間を短縮できたのだった。私たちの出発時間は10時45分と書かれてあった。下船口の場所は4番デッキ、私たちの部屋から一番近いエレベーターで4階に降りればいいのだ。時間になれば船内放送で呼び出される、それまでの待機。
前日深夜届けられた書類(フロントは深夜届けたと言っていた)は、税関申告書、健康証明書、上陸許可証、健康カード、それに荷物につけるタグだった。健康証明書は提出書類として必要事項を書き込まなければならない、税関申告書も同様。これらに加えて携帯しているIDカード、パスポートをすぐ出せるようにしておかなければならない。ここで上陸許可証、健康カードについて少し詳しく記しておきたい。上陸許可証の正式名称はこうである。
この書類は各人に配布される。前にも書いたが新型コロナウイルスが陰性であることと日常生活を保証されたものだ。しかしこの許可証には健康カードなる書類が付いている。
本来「健康カード」なるものは「上陸許可について」の注意・付属文書であるだろう。しかし実態はこちらのほうがメインになっていき、「上陸許可について」の「日常の生活に戻ることができます」の文言はなかったことになっていったのだ。それは帰宅して、ふたたび14日間の蟄居生活をし、再度PCR検査を受けなければならなかったことでわかる。また目を疑うのは「やむを得ず外出をする場合は、必ず、公共交通機関の使用は控えてください」という文言だった。
もし厚生労働省がこのような処置は「咳や発熱などの症状が出た場合」の念のためのものだというなら、「感染しているおそれがないことがあきらかである」とか「日常生活に戻ることができます」などの文言は書くべきではないし、万が一のときを考えれば横浜駅で解散などは許されないことなのだ。
船での隔離がいかに中途半端で危険なものであったか、この2つの文書がよく示している。
10時45分、私たちのグループNAVY(荷物につけたタグの色)は予定どおり呼び出され、下船口四番デッキに行く。部屋を出る前、ちょうど1か月過ごし続けた部屋とバルコニーの写真を撮った。すると、いうにいわれぬ複雑な感慨に襲われ、思わずこみ上げるものがあり、あわてて感情を押さえつけなければならなかった。
検疫の受付で必要書類を提出、健康に異常なしと報告し、サーモグラフィーによるスクリーニング、検温をすませる。最後にIDカードでたしかに下船したことをチェックされ、地上に降り立った。リュックを背負い、両手に2つの紙袋、まるで難民のようだ。ターミナルのなかで、6個の大型荷物を受け取り税関に進み申告書を提出、これでようやく脱出ができたのだった。ありがたいことに、白の防護服を着た職員が2個のスーツケースを引いてくれて、宅配便の受付窓口を教えてくれる。宅配便コーナーはやっぱりあったのだ。防護服の職員にお礼を言い、宅配便の発送手続きをすます。係に金額を聞くと、タダです、不要ですとの答え。そうか、これも船側の支払いだったのかと気づく。
危惧したとおり、バスは横浜駅行だけで、東京行は運行していない。バスの運転席は急ごしらえのビニールシートで客席側と仕切られ、客席側の空気は入らないようになっている。まるで下船者たちは危険人物の群れのような扱い。それで横浜駅で解散? あとは勝手に帰れ、これほどの矛盾はないではないか。怒りがこみあげてくるのは当たり前なのだ。
横浜駅で、新幹線の切符を買い東京駅まで向かう。駅前の空いているレストランを探しあて、片隅でビールで乾杯、そして昼食。夕食の駅弁を駅地下で購入し、北陸新幹線に乗り、夜七時ごろ帰宅した。まさに激動の一日。私たち二人は、会話をすることもなく、いつものように風呂を入れ、お湯を沸かし昼に買った弁当を食べた。時々会話はするのだが、それよりもこうして自宅にいること自体が不思議で、うまく言葉にならなかったというのが正直なところだった。
寝る前、まだ連絡を取っていなかった友人に電話連絡をした。隔離中、私の姿をテレビで発見しながらも、私の携帯電話の番号もメルアドを知らず心配メールをPCに何度も送ってくれていた人だった。彼に無事に帰宅したこと、詳しくは明日メール報告をすることを約束した。今度こそ何も考えずベッドに倒れ込む。長かった一日を終えたのだった。
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(「ダイヤモンド・プリンセス号」乗船者 小柳 剛)