教育改革について語る場合、既存のカリキュラムを大多数の生徒たちが消化できていることが前提になる。しかし、その前提を疑ってかからなくてはならない。
『ルポ 教育困難校』の著者の朝比奈なを氏は、公立高校の社会科教諭として約20年勤務した経験を持つ高校教育の現場に通暁した専門家だ。
朝比奈氏は、教育困難校、すなわち「高校教育の本来の目的である多彩な教育活動に困難が伴っている学校」への取り組みを強化する必要があると強く訴える。具体的にはどのような学校がこの分類に所属するのだろうか。
<「教育困難校」を偏差値で定義づける必要は本来ないと考えるが、イメージをわかりやすくするために敢えて私見を述べることにする。
筆者はこれまでの体験から、公立高校に限って言えば、偏差値40台前半以下の普通科、総合学科、商業・工業等専門高校の一部、課程では全日制、定時制、通信制の高校がほぼ「教育困難校」状態にあると考える。
商業高校や工業高校等の専門高校を一部としたのは、これらの高校には受験偏差値が高くないところが多いが、そこには専門的技術や資格の取得というわかりやすい目標があり、「教育困難校」とは全く違う光景が広がる学校が少なくないからだ>
と朝比奈氏は指摘する。母集団が正規分布しているならば、偏差値40台前半まで、すなわち偏差値45以下は、30・9%だ。高校生の約3割が学習困難な状態にあるというのは、日本の教育が危機に瀕しているということだ。
こういう高校の現状はどうなっているのだろうか。
<生徒の苦手な教科のトップは英語だ。教員は基礎からの内容を何とか身に付けさせようとさまざまな工夫をしている。
曜日や月の名称、各国の国名など基本的単語が正しく書けるように何度も繰り返し練習させ、生徒が興味を持てるようにとファストフードなど彼らがよく行く店のメニューやパンフレットも教材にする。(中略)
それらを行ううちに教員は深刻な問題に気付く。商店や商品の名前にこれだけ英語などが多用されているのに、実は「教育困難校」にはアルファベットを正しく書けない生徒が相当数存在するという問題だ。
特に、bとd、mとn、qとgなど似た文字を書き分けられない生徒が多い。全く勉強をする気がなく覚えようとしない生徒も少しはいるが、先天的な学習障がいを持ちながら、今まで気付かれず何も訓練を受けなかったからという理由がほとんどではないかと推察できる>
英語だけでなく、数学においても同様の問題があると思う。英語と数学は積み重ね型の学習が必要とされるので、中学段階での学力が欠損していると、それを埋めない限り高校の授業は消化できない。
生徒一人一人の学力欠損を調べ、個別に対策を立てなくてはならないが、現在の高校ではマンパワーの限界でそれはできない。また、学習障がい対策は高校になってから始めるのは遅すぎる。幼稚園か小学校低学年の段階で問題に気付き、専門家が対応していれば、アルファベットが書けないというような教育困難な状況にはならなかったはずだ。
教育困難校に通っている生徒の家庭には、貧困や両親の不和など、教育以外にも深刻な問題を抱えている事例も多いという。学校が保護者と協力して生徒を指導しようとしても、実際にはそれが難しい。
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<何より、保護者に学校に協力しようという思いが薄い。親がやるべきことの優先順位の中で学校の順位は決して最上位ではなく、それどころかかなり下のランクなのだ。
生徒が事件やトラブルを起こした時、どこの学校でも必ず保護者召喚を行う。教員は学校からの呼び出しは何より優先されると思いがちだが、保護者は仕事や兄弟の送迎、自身の先約を優先し、両者の感覚の齟齬により関係が一層ぎくしゃくすることもある。
そもそも、学校は敵と思っている保護者が多い。教育を完全にサービス業と捉え、教員が生徒や保護者にサービスするのは当たり前、トラブルや事件を起こすのも学校の監督不行き届きのせいとする保護者もいる。「忙しいのに来てやった」と言わんばかりの態度、必要以上に強がって教員を見下すような態度を取る保護者も少なくない>
保護者自身が学校から恩恵を受けたという認識がないからこのような態度を取るのであろう。
このような劣悪な勤務環境に長くいると、教員間の人間関係も荒んでくる。
<同じ学年に所属している教員は、その学年生徒の授業や生徒指導を主に担当するので、常に一緒に行動することになる。同じ学年の教員は表面的には仲が良いように見えるのだが、その中で存在感の大きい教員が、他の教員を「使える」「使えない」の基準で分別し、「使えない」とされた教員を裏で攻撃する。
筆者が勤務していた高校での判断基準は、荒れた生徒に対して大声で威圧的な生徒指導ができるか、学校に長時間いられるかの2点のみだった。その教員が教科に関して卓越した知識を持っていようと、学校外で素晴らしい活動をしていようと関係ない。
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そうなると、ほとんどの女性教員や学究肌の教員、おとなしい性格の教員は「使えない」部類に入れられることになる。大きなストレスがかかり、その上なかなか効果も見られない日々の生活が憂さ晴らしの対象を求めさせるのだろう。
「使えない」教員たちの存在は、他の教員の自尊心を守るためのスケープゴートのようだ>
教員の間で「いじめ問題」が起きてくるのだ。生徒たちは、教員間のぎくしゃくした関係を敏感に察知する。学校が一層荒れてくるのは当然のことだ。
日本の社会を強化するために、教育困難校に人と金をつけて、状況を改善するための具体的な計画を立てて実行することが焦眉の課題だ。
『週刊現代』2019年8月24・31日号より