先の大戦が終わってから75年を迎える。当時を体験した人たちが年を追うごとに少なくなっている。だが、私たちは、悲惨な体験を、確かな教訓として後世に語り継ぐことを忘れてはならない。「本当のことを伝える」。いま再び、そのことを考えたい。
苦痛の連鎖 真実語り続ける
昭和20年7月24日朝、13歳だった鈴木知英子さん(88)は奈良県王寺町で米軍戦闘機による機銃掃射を背中に浴び、瀕死(ひんし)の重傷を負った。体内に残った銃弾の破片は鉛中毒を引き起こし、今日まで耐え難い苦痛を与え続けている。戦後、地域の子供たちに郷土の民話を聞かせた「お話のおばちゃん」は、いつしか実体験を語る「戦争のおばあちゃん」と呼ばれるように。「どんなに語りたくない事実であっても、語ることが務め」。語り部としての活動は、今年で50年の節目を迎えた。
その日、敵機は唐突に襲来した。鈴木さんは、大和海軍航空隊大和基地(奈良県天理市)の滑走路を造成する勤労奉仕のため、国鉄王寺駅で電車に乗り込んでいた。発車ベルと同時に鳴り響いたのは、よもやの空襲警報だった。
超低空から掃射 血まみれの家族
大戦末期、爆撃機を護衛するのが役割だった米軍戦闘機が、独自の地上攻撃を展開し始める。ただ、誰とはなく口にしていた「奈良には空爆はない」の言葉を信じ、山の向こうの大阪の空を真っ赤に染める空襲をどこかひとごとのように眺めていた。警戒警報も出ていないのになぜ? そう思ったとき、編隊はすでに頭上に迫っていた。
自宅に向かって無我夢中で走ったが、玄関の目前で「撃たれた」と感じた。手にしていた童話『安寿と厨子(ずし)王』は血を吸って重くなった。はうようにして家に上がると、頬を撃ち抜かれて血まみれの妹、手足から血を流しながら、2歳の弟を体の下に抱く母がいた。
遠のく意識の中で、「ヒュッ、ヒュッ」と弾の走る音がする。赤・青・黄の閃光(せんこう)が上がり、首から背中にかけて焼け火箸を当てられたような激痛が走った。
軒下にまで機首を下げた戦闘機から容赦ない機銃掃射を浴び、後頭部、首、肩、背中、腰と背面全体を負傷。搬送先の救護所で「最初の一発」を腰から摘出したが、治療はそれのみ。腰からは止めどなく血や膿が流れ、全快するまで2年の月日がかかった。
原因不明の頭痛、40年残った銃弾の破片
鈴木さんは戦後、子育てをしながら、故郷に伝わる民話を地域の子供たちに読み聞かせる活動を始めた。だが、平穏な暮らしは原因不明の頭痛によって壊されていく。風が吹き、物音がするだけで激痛に襲われ、視力も低下して一時は失明状態に。40歳で歯は1本もなくなった。転院や受診を繰り返しても原因は分からず、末っ子の入学式で「お孫さんですか」と言われた屈辱は忘れられない。
それから約10年後、初めてのレントゲン撮影で頸椎(けいつい)に金属の異物が見つかった。医師の見立てでは「放置すれば命を落とすか植物状態になる。うまく取り出せても一生車椅子かもしれない」。昭和59年に10時間を超える大手術の末、40年近く居座っていた銃弾の破片がようやく摘出された。
「非国民ね、けがなんかして…」言葉の刃に涙も
戦争の実体験を語り始めたのは38歳の頃。地元の保育所の先生に請われたのがきっかけだった。時折うずく傷と付き合いながら「痛みは『戦争の語りをなまけるな』というシグナル」と受け止め、思い出したくない体験にも向き合った。
あの日、敵機が去った後、負傷者であふれた自宅に救護班が1台の担架を持って駆け付けた。「私を先に。おなかに赤ん坊がいるのです」。こう訴える見ず知らずの女性に、母は「妊婦さんが先です。おなかの中にいるのは大切な男の子かもしれない」と瀕死のわが子の順番を譲った。
救護所に駆け付けた女学校の先生からは、開口一番にこんな言葉を投げかけられた。「非国民ね、けがなんかして。明日からの勤労奉仕はどうするの」。鈴木さんは「戦争があんな言葉を出させた」と今は思っているが、心をずたずたにした言葉の刃を語るときは涙がこみ上げてくる。
「何がいいか、何が悪いか、判断がつかなくなるのが戦争。愛する誰かに対する冒涜(ぼうとく)になってしまうこともあるが、戦争に翻弄された世代には本当のことを語り継ぐ責任がある」
(川西健士郎)