第2次世界大戦で、兵器生産を担った大阪陸軍造兵廠(しょう)の一部機能が京都府南丹市園部町に移されようとした事実は、ほとんど知られていない。移転が実現していれば、軍事拠点と見なされて園部は空襲の重要な標的となった可能性もある。記憶をいま一度、掘り起こす。
同町の京都建築大学校と目と鼻の先にある五合山。背丈ほどもある草をかき分けて歩くと、高さ3メートル、幅4メートルの入り口を山肌に見つけた。中には水がたまる。約50メートルの奥行きがあるとされる。元歴史教員で「ボクらの村にも戦争があった」などの著書がある同町小桜町の田中仁さん(69)は「兵器工場に電力を供給する変電所の予定地だったと言われている」と話す。
工場移転は、終戦前年の1944年の後半から始まった。造兵廠という一大拠点が壊滅的な打撃を受ければ、日本は戦力の多くを失う。工場を分けて被害を限定的にしようと考えられた。「本土決戦に備える態勢づくりだったのだろう」と田中さんは指摘する。
なぜ、園部町だったのか。造兵廠に徴用された同市美山町野添の大東富造さん(95)はその頃、園部町を訪れた際、「亀岡は(平地で)敵に発見される。(山が多い)園部は最適。一刻も早く建築せよ」と幹部が口にするのを聞いたという。
■憲兵監視下で突貫工事、大砲組み立て
平屋で、民家とほぼ変わらない大きさの工場は山や竹やぶに隠すようにしていくつも建てられた。現在の園部町小桜町や城南町に多かった。削られていない木が用いられ、突貫工事ぶりがにじんだ。工場の前面には、山を削った際に出た土で高さ2メートルの土塁を築き、周囲から見えにくくした。作業着を着た50~60人の工員が寺や神社、民家に身を寄せた。機密を守るため、軍刀を下げた憲兵がにらみをきかせていた。12歳だった小桜町の上野嘉雄さん(88)は「家に工員を受け入れたが、仕事内容は秘密だった」と振り返る。
工場では大砲の組み立てなどが行われた。「扉に鍵はなく、友達と中に入ると大砲やねじなどがあった」と城南町の西岡貢さん(84)は思い起こす。「(砲身に)手を突っ込んでみい」とふざけ合ったという。
重労働には朝鮮人も携わった。同町の青松寺には「朴コト野村」と記された引き取り手のない遺骨が眠る。
移転は完了せず、終戦を迎えた。大砲類は園部町半田の谷に集められた。城南町の西岡新(はじむ)さん(84)は「米軍が砲身に穴を開けたり、電気でショートさせたりして使えなくしたと聞いた。その後は放置された」と語る。50年に起きた朝鮮戦争で鉄が値上がりしたと聞いた西岡さんは谷に足を運んだが、大砲類は何者かが持ち去った後だったという。
開発に伴って工場跡はほとんど消えた。だが、父が建設に携わった西岡尚也さん(62)の小桜町の家には万力や鉄棒が残る。当時の記憶を伝える物品の活用が急がれる。
移転が終わり、戦争が長引いていたならばどんな結末が待っていたのか。大東さんは「園部だけでなく、美山ももろともに空襲の標的にされただろう」と推測する。
敗色濃厚だった44年から移転を始めた事実から学ぶ必要もある。「戦力差の情報がなく、メンツの問題もあり、日本は突き進んだ」と、元歴史教員で園部町天引の原田久さん(68)は考える。西岡尚也さんは「『一億玉砕』の思想下での最後のあがき」と見る。現実を見極める力を欠いた戦時中の日本の姿が、移転計画から透けて見える。