沖縄返還&ノーベル賞でも佐藤栄作が名宰相と呼ばれない理由

安倍首相は大叔父・佐藤栄作首相の連続在任記録(2798日)を抜いた。その佐藤は沖縄返還を成し遂げ、日本人でただ1人ノーベル平和賞を受賞しながら、「大宰相」と呼ばれることはあっても、「名宰相」との評は少ない。なぜか。 佐藤政権は日本の転換点にあたり、内政では公害や住宅不足など高度経済成長の歪みに直面し、外交では米国との関係に苦しみながら国を運営した。時代の転換点に総理の任にあるという点は安倍も同じだ。大叔父の政治は姪孫と何が違い、どこが似ているのか、政治ジャーナリスト、武冨薫氏がレポートする。(文中一部敬称略) * * * 佐藤の退陣表明会見(1972年6月17日)の異様な状況はテレビで生中継された。 「出てください。構わないですよ」。テーブルをドンと叩く。内閣記者会の記者が「出よう、出よう」と全員退出すると、1人残った佐藤はテレビカメラに向かって「国民に告ぐ」という退陣の弁を語り続けた。 翌日の日記に、佐藤はこう書いている。 〈昨日の今日の事で、各社朝刊は一斉に小生の批判の記事で紙面をつぶす。いつまでつづく事やら〉(『佐藤栄作日記』) マスコミ嫌いで知られ、寡黙ながら威厳のある総理だった。大蔵官僚時代に佐藤内閣の官房長官秘書官を務めた藤井裕久・元財務相が語る。 「厳格で怖い人でしたから、閣議のときも、閣僚は皆、直立不動で総理を迎えたものです」 しかし、自民党総裁に4選(当時は任期2年)し、沖縄返還を成し遂げた佐藤は、政権の終盤はニクソン・ショックや日米繊維交渉の泥沼化、沖縄返還時の密約の発覚などで民心は離れ、ボロボロで身を退いた──。 佐藤は安倍晋三の祖父・岸信介の5歳下の実弟だが、政界では岸と政治路線が異なる吉田茂首相に重用された。吉田が後継者として官僚出身の政治家を育てた、いわゆる「吉田学校」出身者の優等生だった。 首相に就任したのは東京五輪の翌月だ。前任の池田が「所得倍増」を掲げて日本を高度経済成長の波に乗せ、五輪の大成功を花道に退陣したのに対し、跡を継いだ佐藤内閣は苦難の連続だった。 就任早々、五輪後の不況に直面する。日本政治外交史が専門で『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』などの著書がある村井良太・駒澤大学法学部教授が語る。 「高度経済成長政策でオリンピックが終わる頃には日本経済はガタガタだった。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼の倒産や株価急落で大手証券会社が軒並み経営悪化、証券恐慌とも呼ばれた。佐藤内閣は山一証券への日銀特別融資や戦後初の赤字国債の発行による大減税などで危機を乗り切った」
安倍首相は大叔父・佐藤栄作首相の連続在任記録(2798日)を抜いた。その佐藤は沖縄返還を成し遂げ、日本人でただ1人ノーベル平和賞を受賞しながら、「大宰相」と呼ばれることはあっても、「名宰相」との評は少ない。なぜか。
佐藤政権は日本の転換点にあたり、内政では公害や住宅不足など高度経済成長の歪みに直面し、外交では米国との関係に苦しみながら国を運営した。時代の転換点に総理の任にあるという点は安倍も同じだ。大叔父の政治は姪孫と何が違い、どこが似ているのか、政治ジャーナリスト、武冨薫氏がレポートする。(文中一部敬称略)
* * * 佐藤の退陣表明会見(1972年6月17日)の異様な状況はテレビで生中継された。
「出てください。構わないですよ」。テーブルをドンと叩く。内閣記者会の記者が「出よう、出よう」と全員退出すると、1人残った佐藤はテレビカメラに向かって「国民に告ぐ」という退陣の弁を語り続けた。
翌日の日記に、佐藤はこう書いている。
〈昨日の今日の事で、各社朝刊は一斉に小生の批判の記事で紙面をつぶす。いつまでつづく事やら〉(『佐藤栄作日記』)
マスコミ嫌いで知られ、寡黙ながら威厳のある総理だった。大蔵官僚時代に佐藤内閣の官房長官秘書官を務めた藤井裕久・元財務相が語る。
「厳格で怖い人でしたから、閣議のときも、閣僚は皆、直立不動で総理を迎えたものです」
しかし、自民党総裁に4選(当時は任期2年)し、沖縄返還を成し遂げた佐藤は、政権の終盤はニクソン・ショックや日米繊維交渉の泥沼化、沖縄返還時の密約の発覚などで民心は離れ、ボロボロで身を退いた──。
佐藤は安倍晋三の祖父・岸信介の5歳下の実弟だが、政界では岸と政治路線が異なる吉田茂首相に重用された。吉田が後継者として官僚出身の政治家を育てた、いわゆる「吉田学校」出身者の優等生だった。
首相に就任したのは東京五輪の翌月だ。前任の池田が「所得倍増」を掲げて日本を高度経済成長の波に乗せ、五輪の大成功を花道に退陣したのに対し、跡を継いだ佐藤内閣は苦難の連続だった。
就任早々、五輪後の不況に直面する。日本政治外交史が専門で『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』などの著書がある村井良太・駒澤大学法学部教授が語る。
「高度経済成長政策でオリンピックが終わる頃には日本経済はガタガタだった。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼の倒産や株価急落で大手証券会社が軒並み経営悪化、証券恐慌とも呼ばれた。佐藤内閣は山一証券への日銀特別融資や戦後初の赤字国債の発行による大減税などで危機を乗り切った」