東日本大震災で被災した宮城県山元町の「震災遺構・中浜小学校」が26日に一般公開されるのを前に、町は19日、地元住民に内部を公開した。被災当時、校舎の屋根裏倉庫に避難し迫り来る津波から逃れた教職員や卒業生のほか、震災後に地元を離れた元住民らも訪れ、傷痕残る校舎で「あの日」を振り返った。【神内亜実】
旧中浜小は海から約400メートルの場所にあり、津波は2階建て校舎の天井近くまで襲った。できる限り被災当時のままの形で保存された1階には、津波で泥をかぶった机や椅子が散乱し、天井や床がはがれた生々しい傷痕が残る。
「とっさの判断だったが、今も正しかったのか分からない」。当時校長だった井上剛さん(63)は、校舎内の中庭前に立ち、町民らに語りかけた。地震発生当時、下校前の児童59人がおり、教職員やその後集まった住民らを含め約90人が校内にいた。テレビで流れた津波の予想高さは10メートル。約1・2キロ先の高台まで児童と逃げると約20分かかるため、屋上への避難を決断した。しかし、目の当たりにした第3波は約20メートル。引き波とぶつかって減衰し「助かったのは奇跡だった」。水は2階天井近くまで迫ったが、屋上に避難して全員助かった。
同小は2013年に閉校し、定年退職後に語り部をする井上さんは「ここに来て見聞きし、肌で感じたことこそ伝えたいこと。もしまた同じ津波が襲ったら、どこへ避難するか。どんな気持ちで屋上に避難したのか。それぞれで考えてみてほしい」と力を込めた。
校舎2階には震災前の町並みを再現したジオラマが展示され、被災後に地元を離れた元住民の姿もあった。海のそばで両親と暮らしていた男性(70)は「古里の思い出はここにしか残っていない。知人に会ったり、当時のことを思い起こしたりしたかった」と語った。男性は津波で自宅にいた両親を亡くした。「もしあの時、自分がここにいたら両親を助けられたのに」と無念さもにじませた。
当時小学2年生だった女子高校生(18)は6年ぶりに訪れた学びやに、なつかしさをかみしめた。正面玄関前の小さな広場は、放課後に校庭で遊ぶ子供たちのランドセル置き場だった。今は折れ曲がった時計台が残された広場で「校庭でよくドッジボールして遊んだ」と目を細めた。
当時6年生の担任だった小川仁志さん(42)は語り部として訪れた。昇降口で避難者を受け入れながら、校庭の向こうの松林がなぎ倒され、黒い波が押し寄せるのを目撃し、被災校舎を見るたび記憶を新たにするという。今も蔵王町立小の教頭として震災を語り継ぐ小川さんは「子供たちには災害と向き合うきっかけを与えたい。子供を守る立場の大人には、限られた情報の中でどんな選択をし命を守るべきか考えてほしい」と語った。
町は被災校舎のほか、「日の傾きと同じようにゆっくりと当時の出来事に思いをはせてほしい」との願いを込め、救助のヘリコプターが着陸した校庭に日時計を置き、過去の津波の方角や震源地までの距離を示したモニュメントも設置。26日から一般公開する。