新型コロナウイルスの世界的流行で延期された東京2020オリンピック・パラリンピック。国際オリンピック委員会(IOC)と東京2020組織委員会は延期決定から半年が過ぎても、選手や観客の感染防止対策と追加費用の負担先を明らかにしないまま、なし崩しで開催を強行しようとしている。
世界最大のスポーツイベントの興行主としての利益を再優先するIOCの驕慢を許せば、「コロナ禍を克服した象徴」としてのオリンピック開催により、日本は3つのリスクに見舞われることになる。
「早い段階でお示ししたい」
組織委は9月25日に行われたIOCと大会経費削減についての会合後の記者会見で、オリンピック1年間延期に伴う追加費用を公表しなかった。理由として、「コロナ対策をどのようにやっていかなければならないのか、大変難しい課題」が解決していないことを挙げた。
IOCのコーツ調整委員長は会合前、「新型コロナウイルス感染症があろうとなかろうとオリンピックを開催する」と発言し、バッハ会長もワクチンなしの開催に言及していた。
武藤敏郎組織委事務総長も7月末、英BBCのインタビューで「ワクチンなしで開催できないわけではない」と述べた。3月には「世界保健機関(WHO)の助言に従う」(バッハ会長)と述べていたはずが、IOCも組織委も感染症対策に頬かむりし、開催ありきで動いている。
IOC幹部の強気の裏にはツール・ド・フランスの成功
IOC幹部の強気の発言は、8月末~9月の自転車レース「ツール・ド・フランス」実施を受けたものだ。100年の歴史の中で、戦争以外で中止されたことがない同大会はコロナ禍で2カ月延期後、開催された。IOCはこれを「成功」と受け止め、バッハ会長は10月7日、「今もスポーツの大会が開かれ、(コロナ下でも)実施できると分かってきた」と述べた。
だが、ツール・ド・フランスは大会委員長が、コロナの陽性反応で運営から外れ、大会後に「最後までたどりつけないのではないかと恐れていた」と話すなど、実際は見切り発車に過ぎなかった。
同レースのコロナ対応は選手176人、スタッフの一団を隔離し、定期的なPCR検査を義務付け、7日間で2人が陽性のチームは失格する厳しいものだった。これは、自転車だけの1競技で人数も少ないため可能な対応だったが、それでもスタッフや取材記者に複数の陽性者が確認されている。選手がリタイアしたり、レースが中止されたりしなかったのは僥倖に過ぎない。
一方、東京2020オリンピックは33競技・339種目で約1万1000人、パラリンピックは22競技・539種目で約4400人。選手だけで1万5000人にのぼる。東京2020大会でツール・ド・フランス同様の防疫体制を整えれば、それだけで巨額の追加費用が発生する。
さらに、観客を入れ、11万人にのぼるボランティアの感染対策を加えれば、コロナ禍を想定していなかった大会予算を大きく上回るのは確実だ。追加費用は数1000億円にのぼるとみられているが、組織委に負担する財政的能力はない。
“追加費用”は都民の負担に…
だが、IOCと組織委が10月7日にようやくまとめた延期に伴う大会経費削減は約300億円だけ。IOCは早い段階で自身の追加負担は約700億円までと表明している。追加費用が足りないのは明らかなのに、IOCと組織委に焦りが見られないのは、オリンピック独特の財政ルールのためだ。
開催都市契約は費用負担を組織委と東京都に義務付けている。IOCは用意周到に、都が万一負担できなければ、日本政府が債務保証する約束を取り付けている。
300億円しか節約できない組織委が追加費用を負担出来ないのは明らかだ。都も預貯金にあたる財政調整基金約1兆円のほぼ全額をコロナ対策で使い切る寸前だ。コロナ禍で税収減は確実なため、追加費用は都が公債発行で負担するしかない財政状況だ。つまり、将来的には都民が地方税増税や行政サービス低下の形で、オリンピックの追加費用を支払うことになる。
国民負担も既に巨額にのぼる。オリンピック招致時に約7300億円だった大会費用は既に1兆3500億円に膨らんだ。だが、会計検査院はオリンピック関連で国の支出は2018年度までに1兆600億円にのぼると指摘。
招致後に関連予選が増えた組織委と都の負担分を合わせると関連経費は総額3兆円を超える。このうえ、オリンピック関連でのPCR検査数を増やすなどの対策を取れば、追加費用は数1000億円で済まないだろう。
だが、オリンピック招致段階で、「日本国政府及び東京都は、大会組織委員会の費用負担なしに、大会に関係するセキュリティ、医療、通関、出入国管理その他の政府関連業務を提供する」との保証をIOCに提出している。
つまり、IOCと組織委はコロナ対策の追加費用の大半の支払いを逃れられ、政府は追加費用をコロナ対策予算に混ぜることが出来るのだ。追加費用を未だに公表しないのは、なし崩しで都民・国民に白紙の請求書を回す行為に等しい。
IOCに呼応して、経済効果を理由にオリンピック開催を求める声も国内で強くなっている。自民党の観光産業振興議員連盟(会長・細田博之元幹事長)は10月5日、政府に対し、選手や競技関係者、観客など全員を対象に新型コロナウイルスの検査を実施する態勢を整えるよう要望。細田氏は「無観客でやるなどということは考えられない。閑古鳥の五輪・パラとなれば、日本経済は大変な打撃を受けるだろう」と述べた。
しかし、この発言は経済学上全くの誤りだ。
まず、大会を無観客で開こうが、中止しようが、オリンピック関連費用の大半は既に支出済みだ。今さら取り戻しようもない費用は、経済学で「サンクコスト」(埋没費用)と呼ばれる。過去の支出を将来の損得の判断材料にしてはならない。
また、オリンピックの経済効果は2018年がピークと日銀などが分析している。大会を中止したとしても、経済効果の大半は既に終わっている。第一生命経済研究所の藤代宏一主任エコノミストは「オリンピックというのはスポーツイベントとしては非常に重要だけれども、経済のイベントとしては日本経済に与える影響は限定的」と指摘する。
オリンピックの費用負担と効果の検証がないまま、追加費用を都民・国民へ負担転嫁することこそ、オリンピック強行開催の最大のリスクだ。
2つ目のリスクは“感染爆発”
2つ目のリスクは、オリンピックが引き起こす内外の感染爆発だ。
そもそも、政府も組織委もIOCもオリンピックで選手、観客の感染防止がどうすれば可能なのか具体策を示していない。オリンピックがクラスター(感染者の集団)を作るリスクは大きい。
その一因が、オリンピック開催強行に伴う入国規制の緩和だ。
政府と組織委はオリンピック選手に対し、入国後2週間の自主隔離を義務付けない方針だ。出国元の陰性証明を条件としているが、PCR検査の精度は100%でなく、陽性者が陰性と出る「偽陰性」もある。しかも、これはあくまで検査時点の状態を示すもので、検査後に陽性となったり、飛行機や船などの移動中に感染したりする可能性は否定できない。このため、世界各国は入国後の隔離を行ってきたが、日本は根拠なく制限を緩和しようとしている。
しかも、入国した選手が都道府県のホストタウンに移動することも認めている。ツール・ド・フランスの厳しい防疫体制とは真逆の姿勢だ。
また、相手国の検査を真正とする前提も無謀だ。
オリンピックは、ドーピングに手を染める選手が後を絶たないのが現実だ。世界ドーピング防止機構(WADA)は2017年、1804件、114カ国・地域の選手を処分した。コロナの陰性証明を偽装したり、発熱を隠したりする選手、国がないと考えるのは無謀だ。ドーピングと異なり、他の選手や日本国内への感染拡大を招きかねない。
選手村もクラスターになる可能性
オリンピック選手村もクラスターとなる恐れがある。
IOCはオリンピック憲章で「すべての競技者、チーム役員、またその他のチームスタッフが1カ所に集う」場所として、オリンピック村を位置づけている。オリンピックは単なる競技大会ではなく、スポーツを通じて平和を実現するオリンピズムを広める運動であり、その場のひとつがオリンピック村だ。
だが、東京2020大会のオリンピック村の宿泊施設の多くは、マンションの一室を分割する形で提供されている。1室にベッド2床の部屋が基本で、リビング1部屋を複数の選手がシェアする形態が多い。
また、食堂は2階建てのメインダイニングに4500人を収容する形だ。政府と都、組織委は10月9日、食堂の人数制限や座席の削減、テーブルへのアクリル板設置、選手の交流拠点の入場制限を打ち出したが、それで十分なのか。
米疾病対策センター(CDC)や学術誌サイエンスは10月、新型コロナウイルスは空気中の微粒子(エアロゾル)を介して空気感染すると発表した。感染制御学などが専門の愛知県立大学・清水宣明教授は「世界で感染拡大が続いており、現時点でオリンピック開催を判断できる状況にない。
空気感染対策が必要なのは、日本流の十分と思える対策下でもプロ野球や興行、そしてなにより感染制御の専門家集団が運営する病院でさえ、感染が相次ぐ事実で明らかだ。まして行動様式が日本と異なる海外の選手を日本流で感染防止するのは困難だ。世界保健機関(WHO)がパンデミック終息を宣言していないのに、IOCや政府、組織委は何を根拠に開催してよいと判断できるのか」と指摘している。
最後のリスクは、オリンピックの倫理と価値の棄損だ。
新型コロナウイルスのワクチンは世界中で開発が進められ、早ければ年末にもワクチン接種は始まるが、オリンピック開催までは世界の人口の一部に供給が限られている。
このため、世界各国は医療従事者や高齢者、基礎疾患を持つ人、介護福祉従事者にワクチンを優先的に接種することを検討しており、若くて頑健なオリンピック選手は本来、後回しにされる対象だ。
ワクチン接種は誰から行うのか?
ただ、オリンピック選手はコロナに感染しないわけではない。
日本政府の入国時の隔離免除やホストタウンへの移動、オリンピック村での集団生活を考えると、ワクチン接種が望ましい。だが、感染時に死亡率が高い高齢者や基礎疾患を持つ人より優先すべきなのか。オリンピック開催強行は、IOCだけでなく、日本人の倫理が問われる。
逆に言えば、基礎疾患のある選手も参加するパラリンピックはワクチン接種が不可欠だが、ワクチンの安全性は通常、数年単位で副作用を確認する。接種しないリスクが接種時のリスクを下回らない限り、ワクチンは強制できるものではない。ワクチン接種を義務化した結果、副作用で選手生命を奪われる恐れもあるからだ。
実際、IOCのコーツ調整委員長は、ワクチン接種をオリンピック参加資格とするか、発症時の出場停止を規則化できるかは、各競技団体で未定としている。コロナをどう防ぎ、どうやれば安全に競技が行えるか、具体策を示さないまま、IOCが開催を叫んでいるだけだ。
欧州では10月、感染拡大のため再び都市封鎖する国が相次ぎ、2020年冬に収束するかどうかは誰にもわからない。それを逆手に取り、IOCは来年のオリンピック開催時の状況が誰にも見通せないと、開催判断の先送りを正当化し続けてきた。
しかし、コロナは現在も世界で感染拡大が続いている。来春、オリンピック予選にこぎつけることが出来たとして、選手の練習不足は否めない。流行が収束しなければ参加できない国・地域も出かねない。IOCはオリンピックを「世界最高のスポーツ大会」と称し、放送権料を釣り上げてきた。万全でない状況で、一部の国のみの選手が参加するオリンピック開催は、オリンピズムを逸脱した自己否定ではないか。
1908年ロンドン大会で、英米選手の対立を諫めようと、聖パウロ教会で米人司教が説いた言葉に触発されたIOCのクーベルタンが「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」と伝え、オリンピックが世界に広まる大きな原動力となった。
ところが今のIOCと組織委、日本政府は「オリンピックは開催することに意義がある」と言わんばかりだ。11月2日にはボクシング世界戦が選手の新型コロナ陽性反応で中止に追い込まれ、改めて感染防止の難しさを示した。おざなりな“感染対策”でオリンピックを強行し、選手や観客の健康を危険にさらすことは許されない。そうなれば、オリンピックの価値は地に落ちるだろう。
(後藤 逸郎/文春ムック 文藝春秋オピニオン 2021年の論点100)