「何で福島に帰れないのか」。東日本大震災で福島県富岡町から滋賀県湖南市に避難した舘孝四(たち・たかし)さんはそう言い残し、2017年10月、84歳で息を引き取った。亡くなる2カ月前まで、滋賀や京都で震災の経験を伝える語り部の活動を続けた。11日で震災から10年。妻展子(のぶこ)さん(80)は「故郷に戻れず、どれほど心残りだっただろう」と声を震わせる。
舘さん夫妻は11年3月11日、福島県浪江町で車を運転中に大きな揺れに襲われた。普段は30分で帰れる道を3時間かけてたどり着いた富岡町の自宅は、物が散乱し足の踏み場がなかった。町の防災無線に促され、川内村の体育館へ移った。「数時間で帰れる」と思っていたが、更に郡山市への避難を余儀なくされた。「原発が爆発した」と聞いた。
孝四さんはなれない被災生活で体調を崩し、長男松明(まつあき)さん(58)が暮らす滋賀県湖南市に避難することを決めた。被災から約10日後、着替えることも風呂に入ることもできず、タクシーと新幹線を乗り継いで東京駅に着いた。東京で出迎えた松明さんは「2人ともひどい格好だった」と振り返る。
話の締めは「福島はいいところ」
舘さん夫妻は13年2月18日、湖南市ボランティアセンターの誘いで、語り部の活動を始めた。写真を使って避難までの道のりや苦労、被災地の悲惨な様子を話す。それでも最後には「福島はいいところです」と締めくくるのが定番だった。「地震になったら裸足で逃げろは正しいか間違いか(答えは間違い)」といったクイズを作るなど工夫を重ねた。
語り部を始めてから、「困ったことがあれば言ってね」「遊びにおいでね」と地域で声をかけられるようになった。展子さんは「避難してきた時は冷たくされないかと心配したが、親切にしていただいている」と話す。
原発事故で富岡町に出された避難指示は17年4月、大半の地域で解除された。しかし、町に帰る人が少なく、戻ってからの生活に不安を感じて帰郷を断念した。夫妻の語り部活動は、17年8月まで33回に及んだ。真面目で頑固だった孝四さん。食事が喉を通らなくなっても「薬漬けになりたくない」と検査を拒んで活動を続けた。死後、膵臓(すいぞう)がんと分かった。
展子さんは21年2月、原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。東京電力から賠償金を得る目的ではなく、孝四さんの無念をどこかにぶつけたかったという。形見となった語り部の資料や台本はまだ手元にある。一人での活動は難しく、処分も検討しているが、「夫を思い出してつらくなるので今は考えたくない」と複雑な心境を明かした。【菅健吾】