「顔が怪しいので…」避難所への立ち入りを拒否された”いかつい系”ヤンキー支援隊のとった行動とは?《東日本大震災から10年》

ヤンキーはなぜ10年間も被災地支援を続けるのか「地元が津波に飲み込まれ、DJの先輩は亡くなった」《俺の東日本大震災》 から続く
ひげに長髪、腕にはタトゥー。サングラスをとった眼光は鋭く厳つい……。
被災地支援団体「BOND & JUSTICE(ボンジャス)」には、 そんな“ヤンチャ系”ばかりが集まっている。彼らは2016年の熊本地震や2018年の西日本豪雨などでも真っ先に現地に入り、手慣れた様子で救援物資を配って回ったという。率いているのはヒップホップのイベントオーガナイザーでもある大雅宏さんだ。
2011年3月11日に起きた東日本大震災が、「ボンジャス」始動のきっかけになった。
当時、大さんは出張先の青森で被災。地元は福島県南相馬市の沿岸部で、家族の安否を確認できないような混乱した状況が続いていた。しかし大さんは全国の仲間に連絡しエルグランドで青森から南下。道々で仲間たちから救援物資を受け取り、被災地に届け始めたのだ。
彼らはなぜ被災地支援を始め、続けているのか。10年間の経験のなかで見えてきた「被災地が本当に必要としている支援」は何なのか。
大さんの新著「 起こった事は最悪だけど、出会った事は最高。 HIPHOP被災地支援隊10年間の軌跡 」(東京キララ社)から一部を抜粋し、被災地支援のいまを考える。
( 前編 より続く)
◆ ◆ ◆
地域の方と話をつけ、救援物資を届けに
気仙沼市街に着くと、車内はまた沈黙に包まれた。
「ここもすげえな……」
気仙沼は宮城県最北部の沿岸部にある。海の見えない山間の集落まで津波が押し寄せ、被害は甚大だった。海岸線から数百メートル離れた場所には、漁港から流された大型船が横転している。さっき通った南三陸町と同じように瓦礫が一面に広がる風景の中を走り、高台にある松岩公民館にたどり着いた。
「BOND & JUSTICE の大雅宏といいます。救援物資を届けに来ました!」
まず執務室のような部屋へと、避難所のリーダーの男性に挨拶に行く。
この避難所に来ることができたのは、公民館に物資が足りないことを気仙沼の友達が教えてくれたのがきっかけだ。気仙沼の実家のお父さんを通して、地域の方と話をつけてくれたのだ。
行政の手が回らないことを自分たちがカバー
「今困っていること、必要な物はないですか?」
「食料などの物資は、1週間前よりは集まって来ているんですが……一番困ってるのは洗濯なんです。この公民館には洗濯機がなくて」
「わかりました。すぐ手配してみます」
二つ返事で名取市の拠点にいる仲間に連絡した。来る途中、公民館の丘を下った低地にある川で、洗濯をしているらしい人の背中が目に入った。名取の物資拠点にいる仲間に連絡すると、運よく洗濯機を譲ってくれる人がすぐに見つかり、次回の訪問時に運ぶことになった。
まだ震災から2週間あまり。避難所から市町村の役場にお願いしても、行政も手が回らず、できることとできないことがある。そのカバーを民間人である自分たちがする。被災地を巡っていると、「こんな簡単なことなのに、どうして支援の手が届かないのか?」と、もどかしさを感じる瞬間が多々あるけど、「行政批判をするより前に、自分たちにできることをやっていこう」というのがBOND & JUSTICE の基本方針になった。
「顔が怪しい」と言われ……自分たちは印象が良いとは言えない
とある日、気仙沼市役所に出向いて他の避難所の状況を教えてもらいに行っていたDJ MAMBOW さんと鬼ヤンマさんが戻ってきた。2人ともなぜかカンカンで、チームのみんなへ怒りを捲し立てる。
「信じられるかよ? 担当者に『他の避難所の状況はどうなってますか?』って聞いたら、『教えられません』って断られたんだけど」
「しかもその理由がよぉ、『顔が怪しいので』だぞ? ふざけてんのかよ」
本気でキレてる2人が可笑しくて、他のメンバーはみんな腹を抱えて爆笑。自分もつい噴き出してしまった。
「まあまあ落ち着いて。トイレで鏡見てきな(笑)」
「どっから見ても怪しいベ(笑)」
ヒップホップ出身の自分たちは、一般的には印象が良いとは言えないルックスをしている。いや、どっからどう見ても品行方正には見えないことはわかっている。東北が震災で大変なことになり、いても立ってもいられず、自分の仕事も放り出して支援活動に来てるけど、熱さだけで突っ走ってしまうこともしばしば。
特に気仙沼は津波の後に火災の被害もあり、流された銀行のATMが荒らされるなど、火事場泥棒も多発していた。市役所としても、外部からやってくる人間に対して用心深くなっていた時期なんだと思う。「顔が怪しいので」は、いくらなんでも失礼だと思うけど(笑)。でもそんなヤンチャな自分たちを、気仙沼の避難所の皆さんは受け入れてくれた。
「本当に助かりました。ぜひまた来てください!」
そう、松岩公民館はBOND & JUSTICE にとって、初めて長期的に関わることになる避難所になったのだ。
すごい活気! 非常時の女の人は強い
松岩公民館で避難者の人たちが暮らしていたのは、バスケットコート2面分ほどの体育館だった。隙間なく布団が敷かれ、1世帯あたり畳2、3畳ほどのスペースを段ボールで仕切って生活していた。ざっと見ても避難者の数は100人以上。体育館に収まるはずはなく、外にはみ出している人たちもいる。おじいちゃんやおばあちゃんたちの顔には、疲れ果てた表情が浮かんでいた。
「キャッ! また地震!」
仕切りの間を走り回って遊んでいた子供が、頭を抱えてしゃがみ込んだ。見上げると、天井の照明がぶらんぶらんと大きく揺れている。2週間経ってからもこのような余震が連日に何度も訪れていた。余震とはいえ、揺れの強い時は震度5が計測されることもある。自分も、大きな縦揺れがあった時には3.11のことがフラッシュバックした。避難者が心的ストレスを感じるのも当然だった。
「皆さん、食事はどうしているんですか?」
二度目に訪れた時、気になっていたことを避難所の管理者に聞いてみた。
「食事は調理室で3食作ってます。食材は支援物資を活用したり、被災した水産加工会社の方が提供してくれた加工品などで賄ってますね」
「調理は誰がしてるんですか?」
「避難してきてるお母さん方です。他にも地域の方々がお手伝いに来てくれたりして」
調理室に案内してもらうと、さらに驚かされた。大きな釜からもうもうと湯気が上がる中、10人以上のお母さんたちが忙しく立ち働いてる。しかも「カワムラさん、味噌汁できた?」「はーい、今すぐ!」なんて、手だけじゃなく口も動かしまくりながら。すごい活気! 非常時の女の人は強い。文句ひとつ言わず、ではなく口々に文句を言い合いながらテキパキと働いているその姿が、とても頼もしかった。
避難所の子供たちから学ばせてもらったこと
翌朝も、まだ外が暗い時間から数名のお母さんたちが全員分の食事を作っていた。中でも一番動きの良いお母さんは、松岩公民館館長の奥さんだった。
「うちは自宅が何とか大丈夫だったので『何か自分のできることを』って思って、食事のお手伝いをしてるのよ」
体育館ではその美味しい食事を、子供たちが首を長くして待っていた。プラスチック皿や紙皿に盛りつけられた食事が到着すると、「いただきまーす!」と手を合わせてからモリモリと食べる。食後には「ごちそうさま!」とまた手を合わせ、自分で調理室まで食器を運んで片付けを手伝っていた。
「いただきます」と「ごちそうさま」。子供たちから聞こえたそんな普通の言葉が、やけにリアルに、そして暖かく感じた。“非日常の中での日常”の大事さと、“避難生活中の食の重要性”が身に染みた出来事だった。
避難所の子供たちから、他にも学ばせてもらったことがある。子供たちは遊んでいるだけじゃなく、中学生の子が小学校低学年の子供たちに勉強を教えたり、本の読み聞かせをしたりしていた。その姿が、自分の目には「避難所」という名の大きな家族のようにも見えた。
そして先の見えない不安に大人たちの心が沈んでいる中、いつも元気な子供たちの笑顔は、避難所で唯一の“希望”だった。
「今ここで起こってることがドラマなんだ!」
松岩公民館では、本当に沢山の人たちと沢山の話をした。その中で特に印象に残っている人たちがいる。一人目は、避難者の〈テレビおじさん〉。
体育館の物資置き場になっている場所には、共有テレビとストーブが置いてあるスペースがあった。“憩いの場”として機能しているようで、いつも高齢者の方が暖を取ってテレビを眺めていた。ある昼下がり、代後半のおじさんが画面に向かって突然叫び始めた。
「テレビの中で流れてることがドラマじゃねえ! 今ここで起こってることがドラマなんだ!」
そう言い終えると、フッと悲しそうな表情をしてうつむいた。まさか自分の町が、自分の家が、家族や友人が津波に飲まれ、避難所生活を強いられることになるとは……。おじさんの言葉には、そんな悲しみや悔しさが込められているように思えた。
「絶対大丈夫」ある男性からもらった贈り物のような言葉
二人目は、避難所を初めて訪れた時にトラックからダンボールを降ろしていた時、隣にいた人。その人は自分たちと同じく被災地支援に来ている50代のおじさんで、1995年に起きた阪神淡路大震災の被災者だという。
「中越沖地震の時も来たんやで。阪神の時は、東北や中越の人たちに沢山助けてもらったからな。あの時は助けてもらうばっかりやったけど、今こうして恩返しに来れてることにむしろ感謝や。兄あんちゃんは福島出身か。頑張れな。絶対大丈夫やから。希望を持ち続けていれば、東北だって絶対に復興できる。神戸や大阪を見てきたワシが保証する」
贈り物のようなこの言葉を、心が挫けそうになる度に思い出している。
「お前ら、酒飲めるのか?」「ほれ、これ持ってけ」
三人目は、公民館から名取市の基地に戻る時に、自分たちに声をかけてきたおじさん。「おい、兄ちゃんたちよ」その人は60代前半くらいでけっこうコワモテの雰囲気。顔に見覚えはあったけど、一度も言葉を交わしたことはなかった。
「お前ら、酒飲めるのか?」
「はい。ばんばん飲みますよ」
笑顔でそう答えると、おじさんのコワモテの顔もクシャっと笑顔になって、茶色い瓶を渡してきた。
「ほれ、これ持ってけ。封は開けてねえから大丈夫だ」
泥で汚れたラベルから何とか読み取れた文字は「V.S.O.P」。きっと津波に飲み込まれた物なのだろう。その後、おじさんの顔をどこで見たのか思い出した。夜中、車の中でこっそり酒を飲んでたおじさんだ。避難所になっている体育館では、子供もいるし迷惑になるから大っぴらに酒盛りはできない。だから酒飲みの人は、こっそり車の中で飲むしかない。このお酒はおじさんにとって、とっておきのブランデーだったのかもしれない。そう思うと、ちょっと涙が出そうになった。
活動に大事な“気づき”を与えてくれた避難所
「ありがとうございます! 行ってきます!」
松岩公民館から名取市の倉庫に帰る際に、いつしか自分はそう声をかけるようになっていた。いた。
「ただいま!」
名取から気仙沼に戻ってきた時には、そう言うようになっていた。普通とは逆の、「行ってきます」と「ただいま」。子供たちに気づかされた「いただきます」と「ごちそうさま」。松岩公民館はBOND & JUSTICE の活動に大事な“気づき”を与えてくれた避難所だった。
「頭までタトゥーの仲間が『こんなに『ありがとう』って言われたの初めてかも』って」さだまさしが見た復興支援隊の“ヤンキー魂”《緊急対談》 へ続く
(大 雅宏/Webオリジナル(特集班))