「コロナを乗り越えたところで、日本人は変わらない」作家・高村薫の日本への“悲観”

今回のゲストは作家の髙村薫さん。『マークスの山』や『レディ・ジョーカー』など髙村さんが生み出してきた社会派ミステリーに魅せられてきたという岡村ちゃん。大ファンなだけに膨大な資料を読み込み、少々緊張した面持ちでインタビューに挑みました。はてさてどんな話を聞き出せるでしょうか。『週刊文春WOMAN』創刊2周年号未収録のトークも含めた完全版でお送りします。(全2回の1回め/ 後編 を読む)
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1歩も2歩も引いたところで、じーっと周りを見ている子どもでした
岡村 髙村さんの幼少の頃のことを少しお伺いしたいんですが。
髙村 え、小さい頃ですか?
岡村 どんなお子さんでしたか?
髙村 集団が大嫌いで、みんなで仲良くお遊戯をするのが本っ当に大嫌い。いつも逃げてました。
岡村 人嫌いってことですか?
髙村 じゃなくて、みんなでつるんで何かをするのが大嫌いな子。
岡村 つまり、人に興味はあるけれど、群れたりはしなかった。
髙村 その通りです。基本的に、私は自分が空っぽだから、何でも受け入れられるし、「私が、私が」というのもない。何でも面白い。何でも興味がある。群れはしないけれど、1歩も2歩も引いたところで、いつもじーっと周りを見ている。そういう子どもでした。
岡村 小さい頃から読書好きだったそうですが、やっぱり小説家になるのが夢だったわけですか?
髙村 全然全然、まったく。自分が何になりたいとか、どんな大人になりたいとか、一切考えたことがなかった。本当に空っぽ。だから観察する。観察者にはなれるんです。空っぽだから。
親と反対のことをしなくちゃと思いました
岡村 ご両親の影響というのはどうでしたか? お二人とも音楽や絵画といったアートに強い関心をお持ちだったそうですが。
髙村 私は、親がいつも反面教師だったので、親と同じことは絶対にするまいと思って大きくなりました。特に母は、いろんなことを子どもに要求する人だったんです。子どもとしてはそれが鬱陶しい。
岡村 ああしろ、こうしろと?
髙村 そうそう。そして、その欲求や希望が高くて大きい。全部、私の望みではないことだったので、非常に悩まされたまま大人になりました。結果的に、親の望むことは何一つできませんでしたけど。
岡村 お母さんの要求というのはどんなものだったんですか?
髙村 まず勉強。成績です。「なんでこんなものがわからないの」と。母は化学者で非常に頭のいい人でしたから、子どもがひどい成績を取ってくると、我慢ならなかったんです。しょっちゅう怒られました。それから、小さいときからピアノを習わされましてね。ある時期からは、「ピアニストになれ」と。私にそんな気はさらさらなかった。
岡村 ストレスでした?
髙村 ストレスを感じるほど真面目にやってませんでした。親の要求に真面目に向き合うような子どもでもなかったんです、私は。
父も母も大正生まれ。大正教養主義にどっぷりの人でした
岡村 髙村さんは3人姉弟の長女でいらっしゃいますけれど、ご両親の教育というのは、弟さんたちにも同じようでしたか? 男の子と女の子で区別があったりは。
髙村 そこの区別はありませんでした。ただ、すぐ下の弟は小さい頃から非常に音楽の才能があったので、「この子はチェリストになる」「させる」と、徹底的に英才教育をしてました。残念ながら、私が大学生のときにガンを患い亡くなってしまいましたが、彼には全然別の期待をしていましたね。
岡村 お母さん自身にも相当な音楽の素養がおありだったんだ。
髙村 ただ、私は小さいときに気づいたんです。「あ、この人、音痴だ」って(笑)。母は自分でピアノを弾いてドイツ語で歌をうたう人だったんです。シューベルトとか。でも、それを聴いた私は、これは絶対に音程がおかしいと。
岡村 さすが観察者ですね(笑)。それを指摘したりは?
髙村 いや、言わなかったです。まあいいかと(笑)。
岡村 でも、すごくモダンなお母さんですよね。化学者であり、ドイツ語で音楽も嗜んでいて。
髙村 父も母も大正生まれで大正教養主義にどっぷりの人でした。終戦後すぐに大阪フィルハーモニーのベートーヴェン・チクルス(コンサート)があって、そこで初デートをしたそうなんです。
岡村 なかなかおしゃれですね。音楽ならばご両親と価値観が共有できそうな気もしますけれども。
髙村 なかったです。とにかく、すべてにおいて、親と反対のことをしたかった、しなくちゃいけないと。親のようにはなるまいと。
岡村 僕も結構そういう部分はあったかもしれません。でも、本当に不思議なんですが、この年になって気づいたんです。ああ、自分には親と同じ要素があるんだなと。父と同じような口癖が出てくると、あれ? って思うことがあります。
髙村 私も、外見は親に似てきたと言われます。でも、中身はまったく違いますから。まず、私は戦争の時代を生きた親ほど苦労をしていない。私なんか戦後のいちばんいい時期にのほほんと生きて大人になった世代。呑気で甘さがあるんです。自分は恵まれた人生だったなと思いますよね。
弟が生きていたなら、私はモノ書きにはならなかったと思う
岡村 お話を伺っていると、お母さんの厳しさが、結果的に、髙村さんを作家たらしめたのではと想像を豊かにしてしまいます。
髙村 うんと広ーく捉えれば、そうでしょうね。普通に結婚して、普通に家庭築いて、普通の奥さんになって、という人生を選ばなかったから物書きになったんでしょうし、それは言い換えれば、親との関係があまりよくなかったから、と言えるのかもしれませんね。
岡村 夭折された弟さんのことはどうでしょうか? 髙村さんに影響を与えたのでしょうか?
髙村 彼が亡くなったのは20歳、私が22のときですから、もう忘れるぐらい昔のことです。生きていたら、まず弟は間違いなく音楽家になっていたと思いますので、家族そろってみんなで弟のためにという人生になっていたと思います。だって、親は、チェロを買うために土地や家を売ると言ってましたから。
ああいう楽器って億単位のお金がかかるんです。土地や家を売って、それで弟に楽器を買って留学させようと、そういう人生になるはずだったんです。
岡村 髙村さんにとって、弟さんは小さな頃からいつも一緒、自分の片割れのような存在だったと。
髙村 彼は体が大きかったものですから、周囲は弟がお兄ちゃんだと思っていたんです。私がいたずらをして親を困らせたりすると、弟が中に入って宥めたり。だから、弟が生きていたなら、私はモノ書きにはならなかったと思います。
岡村 弟さん亡き後、髙村さんは大学を卒業され、いわゆるOLとして商社に就職された。そしてある日、小説を書こうという気持ちになったと。30歳になったのを機に書いてみたということですが、そのときはどんなお気持ちで?
髙村 時間つぶしですね(笑)。パソコンを買ったから使ってみたかったんです、最初の動機は。当時は80年代半ば、パソコンはまだ高価でしたし物珍しかった時代。せっかく大枚を叩いたんだから何かしようと。それで最初は会社の仕事を持ち帰ったりしたんですが、そんなバカなと思いましてね。それで、1行書き、2行書き、3行書き。それが始まりでした。
戦争が起き、地震が起きても日本人の国民性は変わらない
岡村 いま、僕たちはコロナの環境下にいますけれども、どんなふうに感じてらっしゃいますか?
髙村 戦争や大地震ではなく、病原菌、感染症でこれだけ人間の価値観が変わってしまうということに、それで私たち人間の、21世紀のこの人間の暮らしが大きく変わっていくということに、ちょっと放心してしまっているというのが正直なところですね。
岡村 そうですよね。少しでも収束に向けてのシナリオがわかれば心の置き所もあるのですが、昨今はワクチンができたといわれ欧米では接種が開始されていますけれども、まだまだ先は不透明で。明確な答えが出ていないことにモヤモヤして、このモヤモヤがいつまで続くんだろうということにもモヤモヤして。
かつて、人類がペストを乗り越えたときのように、コロナにもきっと大きな意味があるんじゃないかと思うしかないと、僕はいまそういう気持ちなんです。
髙村 私は観察する人間なので、日本人がこのコロナという感染症を経験して、どんなふうに変わっていくのか、あるいは変わらないのか、そういうところにいちばん興味がありますね。
東日本大震災が起こったとき、私は、あれでさすがに日本人も変わるだろうと思っていたんです。でも、変わらなかった。ほとんどその価値観が変わらなかった。何年かすると本当に元の木阿弥でしたでしょう。
これはきっと、戦争のときもそうだったんだろうなと。太平洋戦争を経験し、本当だったら劇的に日本人が変わって当然だと思うけれども、実は変わらなかったんじゃないかと。
だから、このコロナを乗り越えたところで、日本人は変わることができないのではないか、そういう悲観的な思いがしてしまう。前向きに捉えることができる人はもちろんおられるでしょうけども、大多数の日本人は、おそらく元の木阿弥だろうと。
岡村 それは国民性でしょうか?
髙村 国民性というか、日本人がそういう民族なんだろうなという気がします。例えば、いままではたくさんモノを作って、たくさん消費をして、高い経済成長をすることが善だったけれども、そういう生き方はもう続けられないんだと見定め、生き方を変える、暮らし方を変える、そういうことなんですが、そうではなく、GoToキャンペーンを開始してしまう。いまはさすがにそれもまずいと中止となってしまいましたけれども。
岡村 みたいですね。
髙村 あれって、お得なのでしょう? みなさんパッと群がり、マスクをして観光地に出かける。とても滑稽ですよ。なぜ、マスクをして観光しなければならないんだろうかと。せっかく旅先でおいしいご飯が出てきても、お喋り一つできない。黙ってご飯を食べる。とってもおかしいですよ。Go Toの捉え方一つでも、一歩引いて見ることができるはずなのに、そうではないんだなあと、私は眺めていますね。
岡村 2021年に開催されるであろうオリンピックについてはどう思われていますか?
髙村 おそらくいまの政権は、何が何でもやる、無観客でもやるだろうと思います。でもそれでは本来のオリンピックではないし、岡村さんの地元も盛り上がらない、そして、国民全体も盛り上がらない、本当に残念な大会になるだろうなと思います。だから、私もこのコロナで、これをどういうふうに新しい価値観や新しい生き方に結びつけていけるのか、わからないところがいっぱいあるんです。
岡村さんなんかきっと、通常のようなライブパフォーマンスがいまできない状態だと思いますけれど、例えばこれをネット配信で披露するとなると、やっぱり違いがありますでしょう?
岡村 まったく違います。
髙村 そうでしょう。音楽のパフォーマンス一つとっても、あるいは野球やスポーツ一つとっても、こういった感染症の中で、人を集められない中で、どんな形があり得るのか、私は全然わからないんです。何か私たちが想像もしなかったようなすごく新しい形の何かが出てくるのかなあとも思ったり。わずかな期待もあるんですけれど。
実は2年前から鬱を患っているんです
岡村 コロナで世の中が萎縮していることとの因果関係はわかりませんが、最近、心を病む人が増えているのかなって思うときがあります。人生を儚む人も出てきている現実、髙村さんはこの世相をどう思われていますか?
髙村 実は私、もう2年ぐらい鬱なんです。鬱はいつどこから入ってくるものかわかりませんし、自分で選び取るものでもない。でも、ある日気がつく。「ああ、これ、たぶんそうだな」って。
岡村 そうでしたか。
髙村 私の場合、原因がはっきりしているんです。四半世紀一緒だった仕事上のパートナーが亡くなりましてね、突然病気で。ブックデザイナーの多田和博さん(18年没)。多田さんはずっと私の本を作ってくださって、二人三脚だった方なんです。
傍から見れば、仕事上のパートナーが亡くなったというだけのことかもしれません。でも、私の中では、ある日どうしようもない穴があいてしまった。他人にはわからないけれど、私の中ではそれがわかる。
ですから、いま、死にたいと思っておられる方に「どうして?」って聞いても他人にはわからない。その人の中で、とにかく穴があいてしまうし、穴があいてしまうと、どうにもこうにも埋められない。そっとしておくことしかできないんです。まさに日にち薬で、1年、2年とそっとしておく。そっと、そっと、生きていく。
やっぱり、自殺してしまう方というのは、真面目で、一生懸命頑張ろうとする人です。その穴から出ようとして。自分が鬱だなと思ったら、いろんなこと放り出して、ぼんやりすることだと思っています。
岡村 もどかしくはあるけれど、解決するのは時間しかない、と。
髙村 実は私、鬱になるのはこれで2度目なので、それがよくわかるんです。最初の鬱は、母を亡くしたときでした。あんなに大っ嫌いな母だったのに、亡くなったらやっぱり、自分の中にものすごく大きな穴があいた。ちょうど阪神淡路大震災と重なったんです。
岡村 1995年、ですね。
髙村 そうです。震災と母の死が重なって鬱になった。だから、よくわかるんですが、とにかく頑張らないことだと思いますね。
※最新話は発売中の 「週刊文春WOMAN 2021年 春号」 にて掲載。
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text:Izumi Karashima
たかむらかおる/1953年大阪府生まれ。国際基督教大学卒。89年、大阪の外資系商社在職中に書いた初めての小説が、日本推理サスペンス大賞最終候補に。翌90年『黄金を抱いて翔べ』で大賞を受賞し、デビュー。93年『マークスの山』で直木賞受賞。近年は純文学に活躍の場を広げる。
おかむらやすゆき/1965年兵庫県生まれ。音楽家。86年デビュー。「岡村靖幸 2021 SPRINGツアー操」が3月21日よりスタート。NHK「みんなのうた」で、いまの時代を生きる子供達のために書き下ろした新曲「 ぐーぐーちょきちょき 」が、2年2ヶ月ぶりのシングルとして発売に。

「実は2年前から2度目のウツです」作家・高村薫はいかに1度目のウツを抜け出したか へ続く
(「週刊文春WOMAN」編集部/週刊文春WOMAN 2021 創刊2周年記念号)