普天間返還合意25年 裏切られた期待「何も変わらない」

沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場の返還合意から12日で四半世紀がたった。太平洋戦争末期の沖縄戦時、住民が暮らしていた土地に米軍が建設した飛行場は今も返されず、フェンスの中には沖縄独特の「亀甲墓(かめこうばか)」が残る。近くの宜野湾市野嵩(のだけ)で暮らす電気工事業、大川千尋さん(66)は11日、米軍から立ち入りの許可を受け、今年も年1回だけの墓参を済ませた。「25年もたったのか……。返ってきてほしいが、期待を裏切られ続け、半分あきらめている」
先祖崇拝の文化が根強い沖縄では旧暦の3月、墓前に親族が集まり、ごちそうを食べて先祖を供養するシーミー(清明祭)という風習がある。米軍基地内の亀甲墓はこのシーミーの時期に年に1日だけ墓参が許される。普天間飛行場は11日に立ち入りが許可され、353人が事前に申請した。
大川さんの先祖の墓があるのは普天間飛行場内の北側の一角だ。農家だった先祖が約300年前に沖縄本島中部から移り住み、一帯を開墾したが、1945年の沖縄戦で米軍に接収された。周辺にはガジュマルやアカギの木が生い茂り、普段はフェンス越しに墓を見ることさえできない。
11日は朝から息子ら8人で基地内に入った。1年間で伸びきった草を刈り、墓を掃除した。午後2時半ごろには妻や娘、孫らを呼び寄せ、計15人で墓の前で重箱料理をつついて供養を済ませた。本来は親族や先祖とゆっくりとした時を過ごすシーミーだが、「制限時間」の午後4時半を前に慌ただしく基地を出た。
大川さんは「1年に1回しか入れないから、墓を修理しようにもしきれない」と語る。2年前に墓を訪れると、前年の台風で倒れたらしいガジュマルの大木が墓を覆っていた。昨年のシーミーからチェーンソーやなたを持ち込んで木を取り除く作業を始めたが、今年も作業が終わらなかった。墓の周囲の石垣も以前に地震で崩れ、毎年、セメントでの修繕が必要だ。
「普天間飛行場は今後5年ないし7年ぐらいに全面返還される」。96年4月、当時の橋本龍太郎首相がモンデール駐日米大使と並んで会見し、こう発表した姿を大川さんは覚えている。当時はその言葉に期待を膨らませたが、あれから5年が過ぎ、10年が過ぎ、20年が過ぎ……。「前に進んでいると感じない。もう返ってこないか、いつかは返ってくるのか、半々。それまで自分が生きているかどうかだ」。期待は薄れた。
政府は普天間飛行場の代替施設を建設するため、名護市辺野古の沿岸部で埋め立て工事を進めている。県民の反対が根強い中、選挙の度に辺野古移設に「容認」か「反対」かを迫られてきた宜野湾市民。「辺野古にも移ってほしくないが、普天間は返してほしい。新しい基地を造るのは沖縄にとって返還とは言えない」。大川さんの思いは複雑で「商売をしているし、本音は言えない」とも漏らす。
自宅は滑走路の延長線上にあり、昼夜問わず米軍機が飛び交う。ある程度の騒音には慣れたつもりだが、近くの保育園で米軍機の部品が発見されたこともあり、自宅の真上を通ると「何か落ちてこないか」と不安で空を見上げる。そんな思いは政府に届いているのだろうか。返還合意から四半世紀が過ぎ、無力感が募る。「一市民がどうのこうの言っても始まらない。声をあげたところで何も変わらないから」【竹内望】