兵庫県宝塚市の中川智子市長(73)が18日で退任する。政界引退も表明しており、3期12年の市長と2期7年の衆院議員の計19年の政治家の歩みに終止符を打つ。さまざまな活動の中で伝えたかったことは何だろう。「SOSを発している人を見つけ、見捨てないできた」と話す中川市長に、これまでの活動に込めてきた思いを聞いた。【土居和弘】
差別や貧困なくしたい
――中川市長の活動の原点は。
◆小学校低学年から中学2年の頃まで大阪府内で暮らしました。当時、部落差別や在日コリアンへの差別などに身近で遭遇しました。家が貧しくてきょうだいの世話のため学校に通えない同世代の子供もいて……。差別や貧困がある社会はおかしいと思って、私は差別を絶対にしないし貧しさもなくしたいと誓いました。
短大を卒業後、東京の海運会社に就職しました。待遇に男女格差があることなどに疑問を感じて、同期入社の女性たちと組合活動をしました。泣き寝入りするのでなく、仲間と一緒に仕組みを変えていった経験は楽しい思い出です。
――結婚後、住まいを持った宝塚市で市民活動をし、阪神大震災(1995年)のボランティア活動にも取り組みました。その後の人生の転機になりました。
◆宝塚に引っ越して来たのは70年代後半。専業主婦でしたが、育児教室を開設したり、仲間の主婦らと学校給食を守る活動をしたりしました。震災のボランティア活動の一つとして、仮設住宅に移る被災者に市民から寄付してもらった冷蔵庫や洗濯機などの電化製品を渡しました。無償でなく、安価ですが買ってもらうことで、被災者に自立意識を持ってもらいたいと願っていました。
しかし、被災者の暮らしは良くならないままで、歯がゆい思いをしました。土井たか子さんの地元秘書らから「宝塚に元気のある市民がいる」と衆院議員への立候補を打診され、OKを伝えました。「被災者を支援する法律を作りたい」という思いからです。夫の理解も大きかった。49歳でした。
――その決意は、被災者生活再建支援法の成立(98年)に結びつきました。
◆衆院議員として他に、ハンセン病の元患者や薬害ヤコブ病被害者、在外被爆者などの支援に取り組みました。政治の光が当たっていない人のために政治家は存在します。国会で働いてナンボという思いがあって、地元にあまり帰らなかった。だから選挙には弱かったのかも(笑)。2002年に成立した身体障害者補助犬法の制定に向け関わるようになったのは、毎日新聞阪神支局主催の集まりで介助犬シンシアと使用者の木村佳友さんに出会ったことがきっかけでした。
――宝塚市長選に出馬したのは衆院議員でなくなってから6年がたっていました。
◆夫が亡くなって、気持ちがずっと後ろ向きの時期でした。市長が2代続けて汚職事件で逮捕された後の出直し選。衆院選で支援してくれた人らから「頼む」と請われて、「必要とされているなら」と。私は生き直すつもりでした。
国が動かない場合は宝塚から発信
――市長を「地方自治体の矜持(きょうじ)を持って務めてきた」と話していますね。
◆市や町や村は住民に一番近い。住民の思いが分かるのはわれわれなんだと自信を常に持つことです。国に言われるがままでは、時として住民を守れない。国が動かない場合は、宝塚から発信して国に決断をさせる。そんな気概です。
声なき声を上げている人を見つけて、支える仕組みを作ることも、その「矜持」からです。「パートナーシップ宣誓制度」の導入(16年)や、就職氷河期世代の正規職員への採用(19年)がそうでした。
パートナーシップ宣誓制度は全国4番目の導入で、先行した東京都渋谷区が難航したのを見て、役所内で根回しせずにいきなり発表しました。しかし、担当者はそこから勉強して、大切さを分かってくれた。氷河期世代の職員採用は私の子供たちの世代で、報われない境遇がずっと心に引っかかっていました。いずれもその後、他の自治体に広がっています。
――市長在任中、大切にしたのは。
◆市民から届く手紙です。苦情であっても、できる限り返事を書き、職員に話を聞きに行かせもしました。市民の声をすくい上げ、見えていなかった市民の本当の姿が見えてくる。一番の要でしたね。
もう一つ、平和であったり、人権であったり、環境であったり、効率だけでは図れない大切なものを守るという思いです。宝塚には、こうした分野で活動する市民がいてくれました。市民力の高いまちです。
なかがわ・ともこ
和歌山県生まれ。宝塚市で市民活動や阪神大震災のボランティア活動に取り組む一方、インドネシアから輸入した乾燥糸コンニャク販売会社を設立。1996年、社民党党首(当時)の土井たか子衆院議員の要請を受け「土井チルドレン」の1人として衆院選に立候補し初当選した。2009年の宝塚市長選に当選し、市長に就任。20年12月、退任を表明した。