「安楽死」を望んだALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者が殺害された「ALS嘱託殺人事件」で、いずれも医師の大久保愉一(43)と山本直樹(43)の両被告が嘱託殺人容疑で京都府警に逮捕されてから10カ月。新たに、山本被告の父親を殺害した疑いが浮上し、2人は山本被告の母親とともに再び逮捕、起訴された。父親の遺体は司法解剖されずに火葬されており、「遺体なき殺人事件」の真相解明は裁判員裁判に委ねられる。一方で、嘱託殺人罪は裁判員裁判の対象外となっており、医師としての倫理も問われる2事件の審理方法が注目されている。
「まさか父親も…」
「知人が勤める東京都内の病院に転院させる」。捜査関係者によると山本被告らはこう説明し、平成23年3月5日、長野県内に入院していた父親、靖さん=当時(77)=を退院させた。だが、父親はその日のうちに死亡。母親の淳子被告(76)名で出された死亡届には、父親が5日昼過ぎに都内のアパートで死亡したと記され、遺体は事件性の有無を調べる検視や司法解剖がされずに火葬された。
父親の死に疑念が抱かれたのは9年後の昨年7月、ALSの女性患者に頼まれて薬物を投与し、殺害したとして府警が嘱託殺人容疑で両医師を逮捕した後だった。2人から押収したパソコンから、父親の殺害をほのめかす内容のメールが複数見つかり、一部が淳子被告にも転送されていたことも判明。「父親の殺害容疑が浮上するとは、誰も思っていなかった」と別の捜査関係者は振り返る。
不可解な点多く
捜査を進める中で、父親の死をめぐる不審な点が次々と明らかになった。
府警が入院していた病院に確認したところ、主治医は退院直前まで父親の容体が安定していたと証言。死亡診断書にも虚偽の記載があり、死亡場所として記された都内のアパートの一室も、事件5日前に山本被告名義で約1カ月間の短期契約で借りられていた。逮捕前の任意聴取では、淳子被告が「殺害の計画を知っていた」との趣旨の説明をしていたという。
こうした証拠を踏まえ、府警は3人が父親殺害に関与した疑いが強まったとして強制捜査に踏み切り、6月3日、京都地検が3人を殺人罪で起訴。状況証拠の積み重ねで立証できると判断したとみられる。
一方、殺害方法や3人の認否、役割については「証拠に関わるので回答は差し控える」(地検)と明らかにせず、動機を含めて不可解な点は多く残る。
裁判員、難しい判断
2つの事件は今後、京都地裁で審理され、法廷での真相解明に期待がかかる。
ただ、殺人罪は裁判員裁判の対象だが、嘱託殺人罪は対象外。同じ被告が複数の事件で起訴された場合は併合して審理されることが多く、裁判員裁判対象の事件が含まれていれば両方を裁判員裁判で裁くこともあるが、両事件がどのように審理されるのか現時点で見通しは立っていない。
甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は「市民の良識も交えた適切な量刑のためには、ALS事件についても事実認定の段階から裁判員が加わるのが妥当だ」と述べ、その場合は両事件を併合し、事実認定と量刑を含めて裁判員裁判として審理・判断するのが適当だと説明する。
ただ、直接証拠に乏しい遺体なき殺人事件の立証には高いハードルがあり、裁判員は難しい判断を迫られる。渡辺教授は「状況証拠を積み重ねるにあたり、裁判員に『ALS事件の犯人だから殺人事件も有罪』というイメージを与えてしまう危惧もある」と指摘。ALS事件の事実認定のための審理に参加し、詳細な証拠を目の当たりにすることでこうしたイメージが強まる可能性もある。
このため弁護側がALS事件は裁判官だけで審理して事実認定を行った後で、父親への殺人事件を裁判員裁判で審理し、最終的に両事件を含む量刑を裁判員裁判で判断する方法を主張する可能性もあるという。
渡辺教授は「ALS事件で有罪でも、殺人事件の立証を緩めることは許されない。どちらの審理方法でも、直接証拠がない以上、検察側は、『3人で殺害した』と考えなければ説明のつかない明確な証拠を示す必要がある」と強調する。(桑村大)