「幸せそうな女性を殺したかった」そう供述する犯人を”弱者男性”と擁護することの本当の問題

8月6日午後8時半ごろ、小田急線の車内で大学生の女性が突然見ず知らずの男に牛刀で胸など7カ所を刺されたうえ、他にも乗客が切りつけられるなどして男女合わせて10人が重軽傷を負う事件が起こった。
逮捕された男(36歳)は「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と供述していると読売新聞などが報じている。また、「文春オンライン」は以下のように報じている。
このように女性をターゲットにした襲撃は、特別めずらしいことであるとは言えない。アメリカでは「インセル」による殺人が複数回起こっている。インセルとは「インボランタリー・セリベイト」の略語で、「不本意な禁欲主義者」を意味する。本人が望んでいるにもかかわらず、恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、「自分に性的な経験がないのは、対象となる相手側にある」と考えており、ネット上で不満を書き連ねるだけでなく、殺人事件を引き起こすケースもある。
たとえばアメリカでは、2014年、女性への「復讐」を宣言し、6人を殺害したエリオット・ロジャーは、インセルのコミュニティ内で英雄視され、その後、ロジャーを崇拝した男性により多くの女性が殺害され、犠牲者は少なくとも44人にのぼった。
さらに、1989年にカナダで発生した「モントリオール理工科大学虐殺事件」では、フェミニズム反対を表明した男が女子学生をターゲットに28人を銃撃し、このうち14人の女子学生が殺害され、14人が負傷した。
犯人であるマルク・レピーヌ(当時25歳)は過去、モントリオール理工科大学の受験に失敗しており、その理由を「理工科系の世界に女性が進出しはじめたことで、男が座っていた椅子を女に奪われた」ためであると考えた。そして「フェミニストのせいで自分は受験に失敗し、人生を台無しにされた」と思い込み、「フェミニストは殺害すべきである」として、凄惨な虐殺事件を引き起こしたといわれている。
レピーヌと同じように、女性の権利を拡大しようとする社会的な動きに対する「男の椅子を女が奪っている」といった批判は、お門違いもいいところで、取り合うに値しない。かつて女性は政治参加も、教育を受ける権利も認められておらず、家庭から出て仕事に就くこと(経済力を持つこと)も許されていなかった。そのようにして、長くにわたり男性が独占し続けてきた政治・教育・就労に女性が参加できるようになったことは、女性が奪われ続けてきた権利がいわば「本来あるべき形」に返っただけであり、間違っても「女性優位」によって男性の権利を侵害しているものではない。
このように、一部の男性が「フェミニズムによって自分たちの権利を奪われている」と感じる現象を、カナダのジャーナリストであるレイチェル・ギーザは著書『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(DU BOOKS)のなかで「権利の不当な剥奪感」と表現している。
女性をターゲットにしたテロや事件が発生したとき、または、女性が「性別」を理由に差別的で理不尽な目に遭わされたとき(例えば医大の入学試験で、大学側が女性の受験者の点数を差し引く不正が判明したようなとき)、どうしてもその事実を受け入れられない、認めたくない人々が世の中にいる。
今回発生した「小田急線刺傷事件」では逮捕された男が「女を殺そうと思った」と明確に供述しているにもかかわらず、「被害者には男性も含まれているので女だけを狙ったというのは女の被害妄想である」「フェミニストが自分の主張に都合よく解釈しているだけ」という趣旨の発言が、SNSやインターネット上に大量にあふれていた。
「被害者に男性が含まれていれば、女性を狙った犯行ではない」という主張について考えてみる。たとえ犯人が「女性だけを殺す」と決めて「逃げ場がないので大量に殺せる」であろう電車に乗り込んだとして、目の前で突然女性が刺されたのを見た乗客たちによってパニック状態に陥った車内で、「女性だけ」を狙って、しかも大量に殺害することは難しいだろう。
実際、一人目を刺したあとの経緯について男は「興奮していて覚えていない」と話している。そんな状況下で、さらに自分が力ずくで取り押さえられる可能性があることも踏まえれば、「女を大量に殺す」という目的を遂行するために、相手が男性であっても、周りにいる人間すべてに切りかかることは十分考えられる。
上記のような理由から、「被害者に男性が含まれている」ことで「この事件はフェミサイド(性別を理由として女性が標的となった男性による殺人事件)ではない」と主張するのは、根拠としてほとんど意味がないと感じる。
さらに女性が弾圧された事件や事案が明るみに出るたび、SNS上で必ず活発化するのが「弱者男性の方がひどい目に遭っている」論だ。「弱者男性」をどう定義するかは非常に難しいが、昨今「弱者男性」という言葉が使われる際におおむね共通しているのは「非正規雇用(もしくは無職)」「孤独」「モテない」といったキーワードのように思える。(個人的には「モテる・モテない」の基準は排除したいが、「非モテ男性=弱者男性」と扱われる機会を最近よく目にするので一応書いておく)
「弱者男性の生きづらさ」は確かに重要な社会問題であり、貧困問題に取り組んでいる私も著書『年収100万円で生きる 格差都市・東京の肉声』(扶桑社新書)の中やさまざまなメディアで、就職氷河期世代(ここで影響を受けたのは男性だけでなく女性も同じである)や、引きこもり男性への公的支援や社会的関心の薄さを指摘している。
しかし「女性差別解消」を考えることと、「弱者男性だってつらい」問題はそれぞれ別で解消しなくてはならないものであり、決して「どちらの方がかわいそうか」を競い合い、より抑圧を受けている方を救済すべき、という性質の問題ではない。
先述した「権利の不当な剥奪感」という言葉の通り、「弱者男性」が抱える生きづらさは、女性に原因や責任があるものではない。「女性にモテないのが恥ずかしい・惨めだ」という文脈で「女が悪い」という結論に行き着くのも論外で、「モテない=見下される」という風潮があるとすれば、それは「男性中心社会」のなかで培われた「女を抱けない男はダサい」という「女性をモノとして扱う男性同士の間での悪習」が生み出した産物であるはずだ。
だからこそ、「弱者男性」の抱える問題は「女性の差別をなくそう」とする動きの中で解決を求めるべきではなく、貧困や雇用格差問題の解消から、そして「男性中心社会」を破壊することから解決を目指すべきではないか。
言うまでもなく、たとえ犯人が弱者男性だとしても、どのような事情があったとしても、無関係の人間を、しかも自分よりも力の弱い女性を攻撃していい理由はどこにもない。被害者がいる以上、このような非人道的なテロや一方的な暴力を決して容認も、擁護も、フォローもすべきではないはずだ。
社会への不満や鬱屈した気持ちが爆発したとき、「誰でもよかった」と言いつつも、加害者による暴力の矛先がより力の弱い子供、女性へと向かいやすいのは事実だと思う。そして今後起きるかもしれない事件を未然に防ぐことは、緊急を要する非常に重要な課題である。しかし、その解決策(=男性の生きづらさを取り除くこと)として「女性の権利を制限すること」は、全く意味がないことだ。
一部の男性自身の首を絞めている「男性優位社会」の構造や価値観を破壊し、男女の雇用不均衡を見直し、男女を問わず経済的に困窮した人たちが頼れるセーフティネットを拡充することこそが、今できる「似たような犯罪の未然防止」ではないか。
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(ノンフィクション作家 吉川 ばんび)