『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した昭和史研究の第一人者・半藤一利さんは今年1月に90歳で亡くなられました。太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、わかりやすく教えてくれた半藤さん。
開戦から80年の節目の年に、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊『 戦争というもの 』(PHP研究所)より、一部を紹介します。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
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硫黄島の壮烈な戦闘と玉砕に、日本国民の涙のかわかない4月1日、ものすごい大兵力を投じて、米軍は一気に沖縄への上陸作戦を敢行してきました。
戦艦十数隻をはじめ艦艇1317隻、航空母艦に載っかった飛行機1727機。上陸部隊は海兵隊二個師団、陸軍部隊二個師団を基幹とする18万2000人。ひしめき合う上陸用舟艇に、嘉手納沖の海面は埋まりました。防衛省や沖縄県の資料によると、結局、沖縄攻略作戦に従事した米軍の総兵力は、54万8000人にのぼったといいます。
迎え撃つ日本陸上部隊は、牛島満中将が指揮する第32軍6万9000人余、大田実少将の海軍陸戦隊8000人余の、合計7万7000人でした。寡兵もいいところです。仕方なく満17歳から45歳までの沖縄県民2万5000人を動員しました。
男子中学校の上級生(満15歳以上)1600人もこれに加えられます。さらに女学校の上級生600人も動員されました。これが「ひめゆり部隊」「白梅部隊」としてのちに知られるようになったのは、ご存じのとおりです。
沖縄を占領されれば、つぎは本土決戦です。その準備はできていませんから、とにかく沖縄で時をかせいで頑張ってもらうしかないのです。といって、制空権・制海権を奪られていますから、本土から陸軍の大部隊の援軍を送ることはもうできません。さらに読谷、嘉手納、小禄、伊江の沖縄の日本軍の飛行場は、すでに猛攻撃をうけて壊滅しています。いきおい本土の九州を各基地として、飛行機による十死零生の特攻攻撃をかけるほかはないのです。
大本営はここに沖縄防衛のための天号作戦を下令、杉山元陸相は全国民にむけて勇ましい談話を発表しました。
「肉を斬らせて骨を断つ。これが日本剣道の極意である。戦争の極意もまた然りである。かならず敵を殲滅して宸襟(天皇の心)を安んじ奉る」
戦艦大和をどうするか
軍艦をほとんど失っている海軍もまた、敵の骨を断つべく、できるかぎりの総力をあげて天号作戦を実施しました。すなわち4月6日の天一号作戦を皮切りに、動ける攻撃機を結集しての特攻に総力をあげたのです。
このとき問題となったのは、まだ戦闘力をわずかに保持して瀬戸内海にその巨大な姿を浮かべている戦艦大和をどうするか、でありました。
大艦巨砲の戦いではなく、制空権の奪い合いの戦いとなっている太平洋戦争では、巨大戦艦の使い道はもはやほとんどありません。といって、このまま降伏して、戦利品としてアメリカにとられて、ハワイ沖に浮かぶ戦勝記念館などの見世物になった、なんていうことは、海軍にとっては、耐え難い屈辱以外のなにものでもありません。
さりとて、水上部隊最後の決戦として、航空特攻作戦の成否にかかわらず、沖縄への突入戦を強行すれば、目的地到達前に壊滅するのは決定的です。
いちばん強かった案としては、本土決戦に備えて陸上に押しあげて、でかい大砲を敵の上陸船団目がけてボカンボカンと撃って終末を飾ろう、というものであったと思います。それが最高の使い道ではないかと。
海軍中央部では大激論がかわされました。が、結局は、及川古志郎軍令部総長が天号作戦について昭和天皇に奏上したさいに、天皇が質問しました。
「航空部隊だけの総攻撃なるや」
これにたいして、
「海軍の全兵力を使用いたします」
と、及川が答えたことが万事を決定してしまいました。戦艦大和の運命はここに定まったのです。
連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が、このことを徳山沖に在泊していた大和に赴いて、大和を中心とする第二艦隊司令部に説明したのが4月6日早朝のこと。第二艦隊司令長官伊藤整一中将は、この無駄な作戦をなかなか承諾しなかったといいます。
昭和35年(1960)冬、草鹿さんはわたくしの取材に答えてくれました。伊藤長官はこういったといいます。
「いったいこの作戦にどういう目的があるのか。また、成功の見通しを連合艦隊はどう考えているのか。成功の算なき無謀としかいえない作戦に、それを承知で7000の部下を犬死させるわけにはいかない、それが小官の本意である」
草鹿は黙って聞いていましたが、やがてポツリといったといいます。
「自殺行」出撃
「これは連合艦隊命令であります。要は大和に一億総特攻のさきがけとなってもらいたいのです」
伊藤はしばし草鹿を睨みつけていましたが、やがて表情をやわらげて、
「それならわかった。作戦の成否はどうでもいい、死んでくれ、というのだな。もはや何をかいわんやである。了解した」
とうなずき、さらに一言、
「もし途中にて非常な損害をうけ、もはや前進不可能という場合には、艦隊は如何にすればいいか、判断は私に任せてもらうがいいか」
草鹿は一言もなく、伊藤の眉宇に期するものがあるのを認めました。そして、NOということもできずにじっと伊藤の顔を見つめていただけであった、と草鹿が語ってくれたことを思いだします。
草鹿の報告をうけて、この日の午後に、連合艦隊司令長官豊田副武大将が訓示を発しました。
「海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、その栄光を後昆に伝えんとするに外ならず」
明治建軍いらいの海軍の栄光を、そして見敵必戦の伝統を、歴史のなかに残すために、全滅を覚悟して突入せよ、ということです。
4月7日朝、大和と一緒に「自殺行」出撃していくのは軽巡洋艦一隻、駆逐艦8隻の、合わせてわずか10隻。折から桜花爛漫たる春。春霞に包まれた豊後水道を出て太平洋へ。将兵たちの目には桜がどんなふうに眺められたのでしょうか。
2時間余の奮戦ののちに、この日の午後2時すぎ、空からの猛攻をうけ大和は沈みました。軽巡洋艦矢矧と4隻の駆逐艦も前後して海中に没します。
大和艦上の伊藤長官は、もはやこれまでと思ったとき、「駆逐艦に移乗して、沖縄へ突っ込むべきです」という参謀たちの進言をしりぞけて、まだ海上に浮いている駆逐艦長あてに命令を発しました。
「特攻作戦を中止す。内地へ帰投すべし」
《太平洋戦争終戦》「日本人の男は一生奴隷に、女は鬼畜のアメ公の妾に…」多くの“虚偽報道”に半藤一利の父が叱責した理由 へ続く
(半藤 一利)