北海道胆振東部地震から3年 厚真町の中村さん 家族の死「染み込ませた」

平成30年9月に発生した北海道胆振(いぶり)東部地震から間もなく3年。マグニチュード7・6、最大震度7という大きな揺れに見舞われた厚真(あつま)町などには被災の傷痕が残る。そこで復旧に取り組む人たちの心の傷もまだ癒えていない。被災地の今を取材した。
頑張るほど悲しみ
震源地に最も近い厚真町。9月6日午前3時7分に発生した地震は震度7を観測する大きなものだった。周囲の山々では斜面崩壊が相次いで発生。その土砂に住宅などが押し流されるなどし、37人が犠牲になった。
町役場職員の中村真吾さん(45)は町内富里地区の実家が土砂崩れの被害に遭い、父の初雄さん=当時(67)=と母の百合子さん=同(65)=そして祖母の君子さん=同(94)=を亡くした。
「この3年は悲しみを乗り越えるために気張っていた。でも頑張れば頑張るほど悲しみに襲われ、乗り越えられないことに気づいた」
家族や職場の同僚、多くの町民などに支えられながら、徐々に悲しみを自分自身の中へと染み込ませるようになったと語る。
町職員として多忙な日々を送る中、月に数回ほど実家があった場所を訪ねている。土砂を撤去後、農地として貸し出し、今は地力増進のためのヒマワリが植えられている。
地震で自宅を失ったり、土砂で農地が使えなくなったりするなど、被害を受けた町民からも多くの励ましの声があった。その言葉の中から両親や祖母との思い出に触れる機会もあるという。
「自分が感じていた親の姿を思わせてくれる話ばかりでうれしい。多くの人に支えられる中で、自分は決して不幸じゃないし、孤独でもない、恵まれていると気づき始めているんです」と優しくほほ笑んだ。
道路と農地は戻ったが
「あっという間だけど、長かったという感じでしょうか」
厚真町の宮坂尚市朗町長はこの3年の月日を振り返りながら、全力で町の復旧に取り組んできた思いを言葉の中ににじませる。町内の復旧事業は、斜面崩壊の被害が大きかった治山が33%と低いものの、道路・橋梁(きょうりょう)、農地などはほぼ100%を達成。ハード面は順調に進む。
災害復旧はおおむね3年で完成させる必要があるといわれており、宮坂町長も「今年が重要」と言い切る。その後は復旧から復興段階に切り替える方針だが「被災した人たちの心の傷は3年では癒えない。コロナという新たな傷を負っている人もいる。多くの人をコミュニティーに取り込み、社会参画の機会をつくることが必要」と次の目標を掲げる。
ただ、現実的には町の人口が減っている。7月末現在の人口は4416人で、地震前の平成30年7月末時点と比べると216人減少。特に被災山間部ではほぼ半減した。
宮坂町長は、シニア層の定住と町外から挑戦してもらえる新しい人材の受け入れを進める考えで「この町が好きで町外からやってくる若者もいる。こうした人たちを支えていきたい」と語る。
ブラックアウト対策
胆振東部地震では発生から17分後に、道内全域が停電する「ブラックアウト」が起きた。
電気は需要と発電量のバランスをとりながら安定供給されているが、地震当日は北海道電力の基幹発電所である苫東厚真火力発電所(厚真町)の2号機が緊急停止。強制的に電力需要を遮断するバランス調整が行われたものの「道東の複数の水力発電所などでも緊急停止が相次ぎ、需給バランスが保てなくなった」(広報)のが原因だ。
大停電は段階的に復旧していったが、道内全域への電力供給が回復したのは45時間後の8日未明。道民は最大で約2日にわたり、電気のない生活を余儀なくされた。
北電は地震の約1カ月後、社内に立ち上げた地震対応検証委員会の方針に基づき、平成30年2月から小樽市で稼働しているLNG(液化天然ガス)による火力発電所「石狩湾新港発電所」(最大出力56万9400キロワット)の安定稼働に加え、太陽光や風力など再生可能エネルギーの活用や、北海道と本州を結ぶ新たな送電線「北本連系線」の増設による電力の安定供給体制を強化。これらの取り組みで「万が一の災害に備えている。電力の需給バランスを保つことに尽きる」(広報)としている。
(坂本隆浩)

【】 平成30年9月6日午前3時7分、北海道胆振(いぶり)地方中東部を震源とするマグニチュード6・7の地震が発生。震源地に最も近い厚真町では震度7、周辺の安平(あびら)町、むかわ町などでは震度6強を観測した。地震から17分後の午前3時25分には北海道全域が停電する「ブラックアウト」が発生し、道民生活に大きな影響が出た。北海道の被害状況調査によると、人的被害は死亡44人(災害関連死含む)、重症51人など。建物被害は住宅の全壊が491棟、半壊1818棟、一部損壊は4万7108棟。