「こんなに頑張ってるのに給料が上がらないのはおかしい。パワハラだ!」 蔓延する“相対評価”、“内申書重視”はなぜ日本をダメにしたのか

都内の私立大学に勤める、知り合いの教授からこんな話を聞いた。
「最近は、学内で試験をしても、正しい成績をつけられなくて困っているんですよ」
この教授は、経済学を教えているのだが、ある学生に試験で低い成績をつけたところ、大変な目にあったという。
学生の親まで出てきて「成績あげろ」
学生は、目を真っ赤にして教授の研究室にやってきて、なんでこんなひどい成績なんだと猛抗議してきたのだ。そこで、なぜ成績が悪かったのか、どこの点で劣っていたのかを丁寧に説明したのだが、全く納得してくれない。
自分は一生懸命がんばった。がんばったのに先生はそこを一切考慮せずに評価する。これは差別だ、納得がいかない、と。
一生懸命がんばったかもしれないが、結果として君の答案は的外れで、理解が不足している。違う内容の試験だったら、たしかに君が勉強したはずの分野についてよい成績がとれたのかもしれないが、今回は残念だったね、と諭しても、学生は自分の努力は正当に評価されてしかるべきだと主張を曲げない。
その日は他に大事な会合があったのでなんとかその場を引き取ってもらったのだが、翌週彼は、大学の学生課に呼び出された。くだんの学生の親が事務局にやってきて、猛抗議しているのだという。
曰く、「こんな成績をつけられたのでは就職に響く。この教授は評価が低かったというが、本当は教え方が悪いのではないか。そのことを棚に上げて、恣意的に評価している。そんな教授は辞めさせるべきだ」
大学までが「面倒ですから成績を変えてあげたら」
自分はきちんと評価をしている、学生によって恣意的に評価することもない、と大学側に説明をしたのだが、大学側も
「先生、それはもうわかっているのですが、親御さんからは、じゃ本当にその教授の評価の仕方が正しいのか大学側から証拠を出せ、と言われていまして。もう先生、面倒ですから成績を良い評価に変えてあげたらいかがですか」
と言われる始末。
頭に血が上った教授は、そんなことはおかしい。それこそ差別だ。学生からの要請で成績の内容を変えるなどナンセンスだ、と訴えたのだが、大学側は
「もういいじゃないですか。うちの大学の学生、もともとそんな成績の良い子が多いわけじゃない。適当に良い成績をつけて進学、卒業させればよいのですよ。そのほうが良い企業に就職できる可能性も高まります。だいいち、成績わるくつけて、留年なんかになったら、また親たちまでが大挙してやってきて大騒ぎになる。先生、ここのところはひとつ、お気持ちはわかりますが、よろしくです」
と完全なあきらめモードだ。
相対評価から絶対評価へ
良い成績つけてやって早く追い出したほうが楽、そのほうがみんな満足して卒業していく、それでよいのだ。
最近の入試は高校受験や大学受験でも内申書重視の傾向が鮮明になっている。試験の一発勝負は、その日の体調やたまたま出た問題の傾向などで運不運がある。中長期で勉学の状況が見て取れる内申書を重視したほうが勉強の仕方も変わる。試験偏差値だけでなく評価を多面的にすることで、正当化される。まさに正論だ。
だがこうした傾向、風潮は学校教育や現代日本社会に大きなマイナスの影響を及ぼしてきていることに、まだ多くの人が気づいていない。
高校受験における内申書評価は2002年頃から、それまでの相対的な評価体系から絶対評価に変わった。相対評価では、評価が5段階であれば、各段階で対象生徒の一定割合が振り分けられていたのだが、絶対評価では、たとえば教師が恣意的に全員を5にすることだって理論的には可能になった。
先生への忖度で優位に
その結果、高校進学が有利に運ぶように内申書を「甘め」につける学校が続出。都道府県によっては、公立高校入試で各中学校における内申書の偏りを調整して評価するなどという、「結局相対評価してるじゃん」的な事態まで発生している。
生徒にも影響が及んだ。絶対評価であれば、誰にでも5をもらうチャンスができる。そうだ、先生への忖度だ。先生に気に入られればよい成績を恣意的につけてもらえる可能性が高まるのではないか。以前ならば、中学生といえば反抗期の真っ盛り。ちょっとやんちゃな子でもテストはできるので、成績は5、などという生徒はどの学校にもいた。ところが絶対評価になれば、先生に逆らうのは損。むしろおだてておいたほうが無難、となる。高い評価を得るには、「がんばってる」ポーズをとるのが手っ取り早い。こうしたこまっちゃくれた小手先の対応をとる子が増えた。
「やってる」感の演出は政治も同じ
さて、こうした風潮はいまや日本の社会をも蝕み始めた。官僚による政治家への忖度は、内閣人事局が官僚の評価について「絶対的な権限」をもったからとされる。尖った意見は排除され、無難な意見、大衆受けしそうな施策ばかりが取り上げられるようになった。
政府自体が株式会社のようになった。株主である国民のご機嫌ばかりを気にして、絶対評価である総選挙を勝ち抜かなければならない。コロナ禍のような厄介ごとが起きても、自分では決断ができないので、周囲を窺ってなるべく波風の立たない、つまり責任を取らされない方法を採用する。内申書さえよければ、コロナ禍対策という難しい試験問題を解く努力する必要はないのだ。したがって「やってる」感だけを演出していればよいのだ、と考えるようになる。
企業社会にも弊害が及んでいる。私の会社でも以前、ある社員に人事評価を伝えたところ、彼は私の評価に対して
「私はがんばっています。こんなにがんばっているのに給料が上がらないのはおかしい。これはパワハラです!」
と断定された。
日本社会の羅針盤を狂わせる甘ちゃんたち
がんばりさえすれば、あるいはそのポーズをとってさえいれば評価される。冗談ではない。企業社会はそんなに甘ちゃんではない。ところが、自分褒めが浸透しきった今の日本社会は、口当たりのいい計画を立て、それに向かって「がんばっている」フリをするだけで、自分はもっと評価されてしかるべきだと信じ込んでいる人が増えている。
世の中の現実の厳しさを学生の頃から経験せずに、周囲も「面倒くさい」「まあいいではないか」と、問題を先送りにしてきたツケが現代の日本社会の「勘違い」と停滞につながっている。見せかけの内申書に酔いしれ、現実を直視せず、狂った日本社会の羅針盤。今こそ困難な問題に正面から取り組み、突破する冷静な思考と圧倒的な行動力を持つ日本が求められている。
(牧野 知弘)