「解決したかった。本当に申し訳ない」。2000年12月に起きた世田谷一家殺害事件で、警視庁捜査1課刑事として計11年間にわたって捜査に携わった野間俊一郎警視(60)が来春、定年退職する。刑事たちの地道な捜査が事件解決につながると信じ、思いを後輩に託す。
1980年に入庁し、91年に光が丘署で刑事としての第一歩を踏み出した。署長は後に捜査1課長として一連の「オウム事件」などを指揮した寺尾正大さん(故人)。「事件は起きた時点で、防ぐことができなかった警察の負け。負けからスタートするわけだから、最後はホシ(犯人)をあげて勝たなきゃだめなんだ」。寺尾さんの言葉が、刑事としての原点になった。
99年に本庁の捜査1課に異動し、殺人や強盗など凶悪事件の捜査に当たった。世田谷事件は発生時には関わらなかったが、05年春に係長として担当になった。子どもを含む4人が殺害されている重大事件の捜査を任され、「重責を感じた」。当時、すでに事件から4年以上が経過しており、成城署の捜査本部に残されていた膨大な資料を読み込むだけで3カ月かかったという。
関係者への聞き込みや証拠品の洗い直しを進める中、ある情報がもたらされた。「事件直後の正月明けのある日、手をけがした男性が病院に来ました」
東京都内の病院に勤務する女性看護師からの情報だった。女性は、手をけがした男性が来院したことを業務の引き継ぎ書で確認したが、その病院が世田谷区外で事件現場から離れていたことや、相談した同僚に事件との関係を否定されたことなどから、警察に伝えていなかった。事件関連の報道を見て記憶がよみがえり、警察に電話したという。
ところが、女性が記憶する時期の病院のカルテに、そのような治療記録は残っていなかった。女性の勘違いの可能性もあるとして、捜査を打ち切るべきだという意見が内部であった。だが、女性の説明は真に迫っており、係長として継続捜査を指示した。
捜査員は時期を広げて、カルテの確認作業を続けた。捜査を始めて約1カ月後、手をけがした男性が夜間に病院を訪れていたことを突き止めた。それは事件から3カ月以上が経過した01年春ごろのことだった。男性は病院の近くの神社関係者で、さい銭泥棒と格闘した際にけがをした手を治療していたという。
結果として「シロ」だったが、こうした地道な捜査が解決につながると野間警視は信じている。
「人の記憶は時間がたてばたつほど曖昧になる。けれど、たとえ曖昧でもその中には必ず真実がある」
捜査本部に加わった捜査員には、犯人が現場に残したハンカチに付着した香水「ドラッカーノワール」をかがせるようにした。昨年8月に捜査1課を離れて東大和署長に着任してからも、機会があれば署員に世田谷事件のことを語る。「一見すると関係のなさそうな情報でも、重要な手がかりになる可能性がある」と考えるからだ。
係長時代、事件で犠牲になった宮沢みきおさん(当時44歳)の父良行さんから「大変でしょうけど、よろしくお願いします」と頭を下げられ、遺族に気を使わせる自分にふがいなさを感じた。良行さんは12年に84歳で亡くなり、「生きている間に犯人逮捕を報告したかった」と悔いる。
事件前日に凶器と同型の柳刃包丁「関孫六 銀寿」を購入した人物が今年1月に特定されたと、かつての部下から聞いた。購入場所は現場から北に約5キロ離れたJR吉祥寺駅近くのスーパー。画像の鮮明化などにより特定したが、犯行時間帯のアリバイが確認され、事件とは無関係だった。
捜査は空振りの連続とも言えるが、裏付け捜査を進めるしかない。「過去の捜査をベースに、犯人の痕跡を追う捜査の網は広がっている。後輩たちは自分たちの捜査を信じて、あきらめずに犯人逮捕に全力を尽くしてほしい」と語る。【最上和喜】
世田谷一家殺害事件
2000年12月31日、東京都世田谷区上祖師谷3の民家で、会社員の宮沢みきおさん(当時44歳)と妻泰子さん(同41歳)、長女にいなさん(同8歳)、長男礼ちゃん(同6歳)が殺害されているのが見つかった。犯行時刻は30日午後11時ごろ~31日未明とみられている。現場の遺留品や血痕などから、犯人は血液型がA型の男。当時15歳くらい~20代で、身長170センチ前後の細身の体形とされる。利き腕は右とみられ、犯人の指紋やDNA型も残っている。容疑者特定につながる有力な情報には、上限2000万円の懸賞金が支払われる。情報提供は警視庁成城署捜査本部(03・3482・3829)。