大学に行くのは「ぜいたく」ですか――。虐待を受けて育った若者たちが今、署名活動を通じて政府にそんな疑問をぶつけている。虐待から逃げ出すために家を飛び出しても、大学生だと生活保護を受けられない。このため経済的に困窮し、進学断念や中途退学を迫られる人もいる。「人生は立て直せる」と訴える虐待経験者たちの声に、インターネット上で共感の輪が広がっている。【野口由紀】
「穴だらけの安全網」
「虐待から逃げた18歳。頼みの綱は生活保護です。どうか選択肢をください」。そうしたタイトルの署名活動キャンペーンが2021年8月、オンライン署名サイト「Change.org(チェンジ・ドット・オーグ)」で始まった。
実施しているのは、NPO法人「虐待どっとネット」(大阪市)の代表理事、中村舞斗さん(32)。大学生の受給を認めない国の生活保護制度を「最後のセーフティーネットと言われるのに、穴だらけだ」と批判し、大学生でも事情によっては受給を認めるよう求めている。
自身も虐待を受けた経験がある。幼い頃から、同居の祖母や親族の暴力にさらされた。熱したろうそくを「罰や」と体に垂らされたり、馬乗りになって首を絞められたりした。耐えかねて中学時代に母と家を出たが、母からもネグレクト(育児放棄)を受けた。虐待の後遺症で精神的な不調を抱え、入退院を繰り返しながら20歳で通信制高校を卒業。「自分の人生に寄り添ってくれた看護師になりたい」と志し、病院で看護助手として働きながら貯金して22歳で看護大学に入学した。「初めて手にした成功体験。やっと普通のレールに乗れた」と喜んだ。
60年前の通知が壁に
しかし、2年生の時に児童心理や母性を学ぶ授業で、蓋(ふた)をしていた虐待経験がフラッシュバックして体調を崩す。アルバイトをして生活費や学費を賄っていたのに働けなくなり、八方塞がりに。救いを求めて赴いた役所で「今だけ生活保護を受けられないか」と尋ねると、職員に冷たく突き放された。「『大学はぜいたく品』というのが生活保護の考え方です」
ショックで言葉を返せず、そこからしばらく記憶がない。自殺を図ったらしく、気が付くと病院にいた。大学は退学せざるを得なくなり、誰も頼れない状況に絶望した。
生活保護は、憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する制度だ。だが、厚生労働省保護課は「大学に通いながらの生活は、最低限度の生活に含まれない」と明言する。どうして大学生はダメなのか。その根拠は、約60年前の1963年に出された厚生省社会局長(当時)の通知だ。高校や夜間大学には生活保護を受けながら通えるが、昼間の大学で学ぶ人は原則、対象外とされた。背景には、高校卒業までに得た知識や技能を生かせば働けるという考え方がある。このため虐待被害者であっても、「特定の人の取り扱いを検討することは難しい」というのが国の立場だ。
文部科学省の学校基本調査によると、局長通知が出された63年度は大学・短大への進学率が15・4%だったが、2021年度は過去最高の58・9%にまで上昇している。中村さんは大学退学後、長期間かけて社会復帰し、虐待どっとネットを20年4月に設立した。「多くの企業で大卒資格を採用要件にするなど、今は大学を卒業することが社会で活躍する上で重要な条件。大学を『ぜいたく』と評価するのはおかしい」と訴える。21年10月、集まった署名を後藤茂之・厚労相に手渡し、制度改正を要望した。ネット上で署名はその後も集まり続け、1月8日現在で約4万8000筆と目標の5万筆に迫る。
学費低減策要望する声も
大学の学費低減策を政府に提案しようとする人もいる。虐待を受けて育った30代女性=東京都=は、同じサイトで21年8月に署名集めを始めた。
母親らの暴力や暴言を受け、高校生の頃に家出した。友人宅を転々としながら、寝る間も惜しんでアルバイトにいそしむ。その蓄えを元に大学へ進学し、在学中もバイトに明け暮れて20代半ばで卒業できた。
今は会社員として働き、貧困を抜け出せた。「私はアルバイト漬けで苦しかった。こんな経験をする人を減らしたい」と語る。求める政策は、大学のオンライン授業の動画を国が買い取り、その動画を視聴して大卒資格を得られる制度の創設だ。「大学の学費が高すぎるのに、虐待から逃げ出そうとする人は経済的に親を頼れない。貧困の連鎖が起きている。学費を下げる一つの取り組みとして考えてほしい」と訴える。
こうした若者らの声に対し、厚労省は「大学に進学する人の応援は必要。学費の減免や給付型奨学金の支給といった修学支援制度の活用を含め、国全体で何ができるか考えたい」と話している。
専門家「政府は支援拡充を」
大内裕和・中京大教授(教育社会学)の話 大学進学に多額の費用がかかることが署名活動の背景にある。日本は高等教育の公費負担が低く、世界的にも最低水準にある。虐待から逃げて親を頼れない人にとっては、あまりにも厳しい状況だ。学費の減免や給付型奨学金の支給をする修学支援制度が2020年4月に始まったが、対象が住民税非課税世帯の学生らに限定されて多くの学生を支援できていない。政府は支援を拡充すべきだ。