伊豆半島は静岡県、なぜ伊豆諸島は東京都なのか…日本から切り離され「独立」していた時期も

九つの有人島や無人島からなる伊豆諸島。島々には豊かな自然が残され、高層ビルやタワーマンションなどが立ち並ぶ首都・東京の都心部とは違った一面を見ることができる。「伊豆」といえば、静岡県に伊豆半島があり、伊豆諸島も静岡県に属していた時期がある。なぜ伊豆諸島は東京に属することになったのか。(大前勇)
伊豆諸島へのフェリーが発着する東京都港区の竹芝桟橋から一番近い大島との距離は約100キロ。約30キロの伊豆半島と比べると、距離的には静岡県寄りと言える。大島の中央に位置する三原山からは、都心の高層ビル群は見えないが、下田や伊豆高原といった伊豆半島の街や自然を目の前に望め、富士山を眺めることもできる。
「伊豆諸島は江戸時代から『東京』との関係が深い地域だった」。こう教えてくれたのは、大島町教育委員会で文化財保護審議会委員を務める岩崎薫さん(70)だ。江戸時代は幕府の直轄地として、島の人々は海産物や塩といった特産品を江戸の「 島方会所 (しまかたかいしょ)」という取引所に持ち込んでおり、経済面で江戸との結びつきが強かった。
1868年に明治維新を迎えると、伊豆諸島は韮山県に組み込まれ、71年には神奈川県西部と伊豆半島に当たる場所に置かれた足柄県の一部となった。足柄県は租税などのために伊豆諸島の調査に力を入れるが、76年に新たに誕生した静岡県に編入された。
管轄の変遷はあったものの、伊豆諸島の人々は明治以降も東京との経済的な結びつきは変わらず、島民の間では東京移管を望む声が根強くあった。一方、静岡県としても、東京と伊豆諸島の商店間で起きた品物と代金を巡る訴訟などの度に、役人が東京に赴いて裁判の手続きをすることが大きな負担になっていたという。
こうした経緯などから伊豆諸島は78年に静岡県から東京に移管されることになった。岩崎さんは「歴史的には東京との結びつきが強かったため、距離は近くても、島の人たちは静岡県であることに違和感があった」と推測する。
伊豆諸島は日本からも切り離され、「独立」していた時期があった。

第2次世界大戦後の1946年1月29日、連合国軍総司令部(GHQ)が出した覚書では、日本領域から除外される地域に伊豆諸島が含まれていた。この時の状況を研究する名古屋学院大の榎澤幸広准教授(50)(憲法学)によると、伊豆諸島では混乱が生じ、利島では日本への復帰運動、八丈島や三宅島では独立論が出ていたという。大島では中心地・元村で村長ら有力者らが集まって独立について話し合いを重ね、「大島大誓言」という暫定憲法も作成していた。
政府はもちろん、東京都幹部がGHQと粘り強く交渉を重ねた結果、GHQは同年3月22日、「伊豆諸島は日本に含まれる」という修正の覚書を出した。これにより、伊豆諸島は約2か月で本土復帰を果たすことができた。榎澤准教授は「伊豆諸島は明治時代初期から東京の一部であることを都が繰り返し伝えたこともGHQが方針転換した一因とみられている」と分析する。
戦乱後の荒波も乗り越えて東京の一部であり続けた伊豆諸島。21世紀を迎えたのに合わせ、呼称変更を模索する動きもみられた。
各島の町村長で構成する都 島嶼 (とうしょ)町村会は2002年、各島の島民に対し、伊豆諸島という呼称を変更すべきかについてのアンケートを実施。この際、変えることを希望する場合は「東京諸島」、「東京黒潮諸島」、「東京アイランド」と具体的な名前の候補も提示していた。
結果次第では、国土地理院など関係機関に呼称変更を働きかけるとしていたが、「変える必要がない」が、半数を超える56%を占め、伊豆諸島の呼称を引き続き使っていくことに。同町村会の国松克彦事務局長(62)は「東京の島々ではあるが、長年の呼称に愛着を感じる人が多かったので『伊豆』という名前が残ったのだろう」と島民たちの思いを語った。