リニア建設を11年止めた「水一滴」問題の重すぎる代償…静岡県の”あっさり幕引き”を許していいのか

静岡県の第20回地質構造・水資源専門部会が6月2日開かれ、JR東海のリニア南アルプストンネル静岡工区(8.9キロ)工事による大井川流域の水資源に与える影響を話し合った。
この会議の結論で、静岡県は「田代ダム案のリスク管理、具体的なモニタリング計画について了解した」と発表した。
これで、リニア問題の最大の懸案である約10カ月間の山梨県境付近の工事で、最大500万トンの県外流出する湧水と同量を、東京電力・田代ダムの取水抑制をして大井川に放流するJR東海の「田代ダム案」のすべてを了解したことになる。
翌日3日の朝刊各紙は一斉に、「リニア 水資源議論終結」(中日)、「水資源の対話全て完了」(静岡)、「リニア水問題 JR東海との対話完了」(日経)などと伝えた。
つまり、静岡県とJR東海の間で約11年間続いた「大井川の湧水の全量戻し」の騒ぎに決着がついたと報道したのだ。
ただこれらは事実とは大きく異なる。
何よりも問題なのは、長野県境での県外流出問題は専門部会でまったく議論されていないことだ。
会議後の囲み取材で、筆者が「山梨県境の問題は終わったが、同じ状況の長野県境付近の工事で流出する湧水の問題は残っている。それは解決したことにするのか」と確認した。
これに対して、県担当理事は「長野県へ流出する湧水は静岡県のものである。専門部会ではなく、県とJR東海との協議で解決する」などとあまりにも不思議な回答をした。
もし、本当にそうならば、実際のところ、JR東海との水資源に関する対話が完了したことにはならない。それだけでなく、最初から、専門部会など設置しないで、県とJR東海だけで対話すればよかったのである。
翌日改めて担当課に確認すると、「長野県へ流出する湧水の問題をどうするのか検討するのはこれから」と対応を変えていた。つまり、まだ水資源に関する専門部会は終わっていないのかもしれないのだ。
川勝平太前知事の時代、県が「情報操作」を繰り返すことによって、あたかも大井川下流域の湧水が枯渇するような間違った印象を県民に与えてきた。マスコミも県からの情報を鵜呑みにして流し続けた結果、とてつもなく長い歳月がかかってしまった。
知事が交代して、それまでの主張を一切検証しなかったから、突けばボロが出てしまう結論となってしまった。
現知事の「スピード感を持った解決」という方針の下、今回は玉虫色の解決で済ましたが、長野県境の問題をどのように処理するかで行政に対する信頼が評価されることになる。
ただ、それまでの静岡県とJR東海の対話が何だったか担当者さえ理解できていないようだ。だから、県民には何が何だかさっぱりわからないだろう。
まずは、川勝氏の求めた「全量戻し」とは何だったのか、わかりやすく説明していく。
水問題の発端は2013年9月の環境影響評価準備書にまでさかのぼる。
JR東海はその中で、「トンネル工事で大井川上流部の流量が毎秒2トン減少する」と予測した。その毎秒2トン減少する予測に驚いたのは、大井川下流域の住民たちである。
南アルプスの地下約400メートルを貫通するリニアトンネル工事は、山梨工区から上り勾配で静岡工区に入り、約8.9キロの静岡工区から今度は下り勾配で長野工区へ入っていく。
だから静岡工区のトンネル工事で、何の対策もしなければ、毎秒2トンの湧水が山梨、長野の両県側に流出してしまうことになる。
2014年1月に開かれたJR東海主催の公聴会で、当時の牧之原市長らが毎秒2トンの湧水減少に対して強い懸念を示した。しかし、JR東海からの具体的な回答はなく、流域住民らの懸念は解消されなかった。
このため、牧之原市をはじめ大井川流域7市2町の首長が「JR東海に地下水を含む『大井川流域の水は大井川に返すこと』を原則とした保全措置を講じること」を求める要望書を静岡県に提出した。
この要望を踏まえ、大井川の流量が毎秒2トン減少する予測に対して、静岡県は2014年3月に「減少のメカニズムをわかりやすく説明するとともに(中略)トンネル内の湧水を大井川へ戻す対策を取ることを求める」などとする知事意見書をJR東海に送った。
知事意見書には「工事中のみならず、供用後についても大井川の流量を減少させないための環境保全措置を講ずること」「トンネルにおいて本県境界内に発生した湧水は、工事中及び供用後において、水質及び水温等に問題がないことを確認した上で全て現位置付近に戻すこと」を盛り込んだ。
この中にある、「工事中、工事後に発生する湧水を水質、水温等に問題がないことを確認した上で全て現位置付近に戻すこと」など、どう考えても不可能である。しかし、この文言がその後の「全量戻し」を求める根拠となった。
知事意見書を踏まえ、JR東海は2017年1月、環境影響評価の「事後調査報告書」を静岡県に提出した。
これに対して、静岡県は2017年4月に送った2度目の知事意見書で「トンネル湧水の溶存成分等の水質や水温に問題がないことを確認した上で、全量を恒久的かつ確実に大井川に戻すことを早期に表明すること」など具体的でさらに高いハードルを課した困難な要求をした。
JR東海は2017年10月までに、「トンネル内の湧水減少分の毎秒1.3トンをリニアトンネルから大井川の椹島付近まで導水路トンネル設置することで回復させる。残りの0.7トンは必要に応じてポンプアップで導水路トンネルへ戻す」方策を明らかにした。
これに対して、川勝氏は2017年10月10日の定例会見で、「あたかも、水は一部戻してやるから、ともかく工事をさせろという態度に、わたしの堪忍袋の緒が切れました」と怒りを爆発させた。
この会見から、静岡県の「全量戻し」の大騒ぎが始まった。
当時、JR東海と大井川流域の利水者11団体とリニア工事着工に向けた基本協定を結ぶ詰めの交渉が行われていた。担当職員から交渉の状況を聞いた川勝氏は「協議の詰めが行われているが、極めて傲慢な態度で臨まれている」とJR東海の対応を厳しく非難した。
リニアトンネル工事による大井川の毎秒2トン減少は、大井川の表流水を使い、流域7市へ水道水を供給する大井川広域水道企業団に許可されている水利権量の毎秒2トンと同じである。
毎秒2トンは、大井川流域の約60万人の水道水と密接に関係していた。
川勝氏をはじめ流域市町長らは毎秒2トン減少に対する「全量戻し」を強く求めた。川勝氏は「静岡県の60万人が塗炭の苦しみを味わうことになる。それを黙って見過ごすわけにはいかない。ルートを変えることを考えたほうがいい」などと主張をエスカレートさせた。
これに対して、JR東海は2018年10月、ようやく「原則として湧水全量を戻す」と表明した。これで、毎秒2トン減少の「全量戻し」は解決したかに見えた。
このJR東海の「全量戻し」の発表以後、専門部会では、毎秒2トン減少に対する「湧水全量戻し」の具体的な方法が議論の中心となっていた。
そんな中、静岡県は2019年6月になって、これまでの議論の疑問点をまとめた「中間意見書」で、「山梨工区、長野工区のトンネル工事が先行することにより、静岡県内の水が山梨・長野県に流出する可能性がある。これについての評価と対策を示す必要がある」とJR東海の回答を求めた。
JR東海は同年7月、「山梨、長野工区で先行して掘削しなければならず、これまでも説明したように県境付近の工事期間中に、山梨県側に毎秒0.31トン、長野県側で毎秒0.01トンの湧水流出を想定している。できる限り湧水流出量を低減していく」と回答している。
静岡県は、JR東海のこの回答を「ほぼゼロ回答」とし、評価しなかった。
ただ静岡県は、県境付近の工事中、山梨・長野県側に湧水が流出することをはっきりと認識していたのは確かである。
ところが、2カ月後、あまりにも奇妙なことが起きる。
2019年9月20日、地質構造・水資源専門部会長とJR東海との意見交換会が開かれた。
JR東海が山梨県側から上向きで掘削する工事中に、湧水が県外流出することを説明していると、オブザーバー参加していた難波喬司副知事(現・静岡市長)が突然、発言のために手を上げてJR東海の説明をさえぎった。
そこで、難波氏は「全量戻せないと言ったが、これを認めるわけにはいかない。流域の利水者は納得できない。いまの発言は看過できない」などと激しく反発した。JR東海はちゃんと説明しようとしたが、難波氏は聞く耳を持たなかった。
その後の囲み取材で、難波氏は「湧水全量が返せないことが明らかになった」と、まるで初めて、山梨・長野県境の工事に湧水が流出することを知ったような発言を繰り返した。
翌日の新聞各紙は1面トップ記事で、「JR東海は湧水全量戻しせず」(中日)、「湧水全量戻し一定期間は困難 県反発」(静岡)などの大見出しで伝えた。他の中央紙も全く同じ内容を地方版で伝えている。
JR東海は以前から、専門部会で山梨・長野県境の工事期間中に湧水が流出することを説明していた。それにもかかわらず、難波氏の発言を信じて、新聞各紙は初めてJR東海の「全量戻し」ができないことが明らかになったと報道した。
極め付きは、2日後の23日の知事会見だった。
川勝氏は「湧水全量戻すことを技術的に解決できなければ掘ることはできない」「全量戻しがJR東海との約束だ」「静岡県の水一滴でも県外流出することは容認できない」などと述べた。
ここで、初めて、川勝氏は「水一滴も県外流出を許可できない」と宣言した。これで静岡工区のトンネル工事に伴う毎秒2トンの湧水減少から、県境付近のトンネル工事による山梨・長野への県外流出へとテーマがすり替わってしまった。
まんまとだまされたテレビ、新聞は川勝知事の「水一滴の全量戻し」宣言を大きく伝えた。
毎秒2トン減少に対する「全量戻し」から、JR東海の約束を根拠にした新たな「全量戻し」が始まったのだ。まさに詭弁を弄することで、「水一滴」がリニア議論の主役に躍り出た瞬間だった。
当然、JR東海の対応にも問題があり、それに対する知事、副知事の戦略だったが、今回はその部分は長くなるので省略する。
このときから、川勝氏の「水一滴の全量戻し」が始まり、「毎秒2トン減少に対する全量戻し」は議論から消えた。
この全量戻しは、静岡県の水環境を守ることとはまったく違い、単なる川勝氏の「情報操作」であり、それに大井川流域の住民らも、川勝氏の「命の水を守る」のキャッチフレーズをまんまと信じ込まされてしまった。
当初の「全量戻し」の求めから約11年だが、6月2日に行われた対話のテーマで約6年間を費やした。
「情報操作」に明け暮れた川勝前知事はもちろんだが、それをろくに検証もせずに垂れ流したマスコミの罪も重い。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)