2025年の下半期になって「クマ問題」が顕在化している。過去にないペースで人里にクマが出現し、食害による農作物の被害が甚大なようだ。何より、人命が脅かされるような事件に発展することも度々起きている。今年度のクマ被害による死者は、11月3日時点で過去最多の12名にのぼったという。
「人災」も発生している。北海道積丹町では、自宅近くの箱罠にヒグマがかかったことで、猟友会と町議が口論に。その際に町議が暴言を吐いたとして、猟友会は「謝罪がない限り出動しない」と応答し、出動をボイコットする事態に発展した。わかりやすい悪役が登場したことで案の定ネット等では個人攻撃に移行し、町内の小中学校に「児童生徒を誘拐する」といった脅迫メールや爆破予告が届くという二次災害も起きた(なお、トラブルから約1カ月半が経った11月11日に町議が謝罪文書を差し入れ、猟友会の出動は再開している)。
冷静に考えてみると、いったい何がこれほど事態を混乱させているのだろうか。クマはたしかに危険だが、危険なことは皆知っていたはずである。COVID-19ほどには「不測の事態」というわけでもないだろう。クマが危険なことなど江戸や明治から知られていたはずで、知見の蓄積もあるはずだ。であるのに、現代社会はクマ問題に関して、クマがもつ脅威以上のエラーを起こしているようにもみえる。
今われわれが注目し、問題解決のために気を払うべき焦点は何であろうか。
まず、積丹町のケースから考えてみたい。「積丹町議会だより」には、渦中の町議が今年の3月に開催された予算審査特別委員会において発言した内容が掲載されている(注1)。クマ問題が顕在化する前に件の町議が公の場で発言していたわけで、注目に値する。
予算委員会という性質を加味して、町議は「コストカッター」の立場から発言しているように読めた。予算をかけた敬老事業に想定されていたほどの人が集まっていない、5カ年計画の「高齢者福祉施設改修工事」の残額の状況、といったテーマに質問を投げかけており、町の事業にムダ遣いがないかを気にかけている様子がくみ取れる。
そして、「積丹町の条例に定める鳥獣被害対策実施隊員」への出費に関しても言及している。興味深いのは、おととし令和5年にはクマに関する情報が53件寄せられ、これは非常に多かったとのこと。しかし去年には23件までに減っていたという。クマの出現は増え続けているわけではなく、波があるようなのだ。
町議はまた、近隣の自治体に尋ねたところ、積丹町ではシカ1頭当たりの捕獲に他の自治体の2倍相当の2万円がかかっていると訴えている。隊員がもらいすぎていると短絡的にみなすでもなく、なぜ自分たちの地域だけヨソの2倍もかかっているのか、と提起するのは至極真っ当な意見であるようには思われる。
注1:積丹町議会「積丹町 議会だより 第100号」
なお昨年のクマの出没が比較的少なかったこともあってか、本議会では主にシカによる食害が焦点になっていた。シカは人命を脅かすほどの事故にはならないこともあってニュースではあまり取り上げられていないが、数の増加と食害の蔓延については長らく農家をはじめとする人々を悩ませている。シカ対策の政策では「一斉捕獲事業」と「緊急捕獲事業」で報酬額が違うなど、シカ問題もそれほど単純ではなさそうだ。
以上、町議の声を敢えて代弁するなら、「獣害への対応は急務であり、にもかかわらず、他の自治体より高いコストをかけているようである」と言いたかったのだ。理解はできる。伝え方や時宜はおおいに誤っていただろうが、世に言われるほど無理筋の主張をしているわけでもなさそうだ。
次に考えたいのは、「積丹町の条例に定める鳥獣被害対策実施隊員」すなわち「猟友会」という存在について、である。クマ問題に際してとかく名前の挙がる猟友会とは、いったい何の組織であるのか。
猟友会は全国組織であり、かつ各都道府県に支部をもつ。おそらくは都道府県ごとの自治が認められており、ウェブサイトにおいても活動目的や理念には若干の差がある。
たとえば、京都府猟友会のウェブサイトの冒頭には、次のような記述がある(注2)。
以下は徳島県の猟友会のメッセージだ(注3)。
出発点は「個人の趣味として狩猟を行う」ことであり、ただ、銃規制の厳しい日本において猟銃を所有し用いるという点から、公益性への貢献やルール順守への目は厳しい。
参加会員の趣味としての狩猟を楽しみつつ、増えすぎた鳥獣の捕獲や、クマやシカをはじめとする獣害への対処など、社会と自然のあいだで公益に与することが組織のパーパスだといえるだろう。
注2:京都府猟友会「京都府猟友会」
注3:徳島県猟友会「猟友会とは」
クマ問題については、猟友会は特に義務をもたず、ボランティア活動が中心の団体である。有志団体であるのだから当たり前ともいえる。猟友会への参加はむろん個人の意思に基づいており、入会することによって得られる金銭的利益はない。むしろ、さまざまな講習や道具にお金を払う立場だ。
趣味でやっていることであるにもかかわらず、必要に応じて仕事に駆り出される。銃という強い武器を操ることのできる貴重な人々であるからだ。
地域でみれば、東北や北海道は特にクマ問題が日常のものになりつつある。秋田県の鈴木健太知事は、次のように述べつつ自衛隊の助力を乞うた。
今回秋田県が要請した支援は「武器の使用を伴わない罠の設置や捕獲・駆除したクマの輸送」などだそうで、「武器の使用を伴わない」が、強調されている。クマは武器が必要な程度には強い相手であるにもかかわらず、日本社会は武器の使用にかなりセンシティブなのである。
これに対し小泉進次郎防衛大臣は、概ね肯定的に要請を捉えつつも、次のように釘を刺す。
武器を用いることは、現代日本においてきわめて慎重に考えるべき問題である。警官は銃を所持するが、緊急時にしか使用することはできない。自衛隊もまた、自由に武器を用いることができようはずもない。
次のようなエピソードがあるくらいである。1959年の北海道・新冠町では、自衛隊がトドに機銃掃射を行ったという例がある。漁業の町である新冠町で、トドが網を食いちぎるなどの被害が深刻化するなか、地元の漁業組合が駆除に失敗したため自衛隊に駆除を依頼する事態となった。
むごくも射殺したわけではなく、耳の良いトドは銃声だけで逃げてしまったのだという。但し、当時の射撃の名目は「駆除でなく訓練だった」と地元の資料館には伝わるそうだ。これはあくまで訓練のために銃を撃っているのです、と「ルールの読み替え」をしていたわけである。
コンプライアンスに厳しく、すぐに批判が各所から漏れ出る現代ではちょっとできなさそうな対応である。
今年9月に「緊急銃猟」が改正法に明記され、住宅地でクマを撃つことが手続き上可能になったものの、人が密集する住宅地に来られてしまっては手の打ちようがないという間隙が存在したことを逆に示している。クマが人里に訪れるのは、危険がより身近になることだけが問題なのではない。対処する側が銃を使えなくなってしまうのだ(だから、法改正が行われた)。
クマ問題の焦点は、専任で対応できる人員が各自治体に整備されておらず、有志団体に外注するしか有効な対処法がないということにある。
少なくとも2025年までに、これほど全国的に「武器を以て獣害に対処する役割」の需要が高まったことはないのではないか。そういった部隊を公設で常置すればよいという意見も見受けられるものの、警察や自衛隊との役割分担や、公的機関にしてしまうがゆえのルールの制約や、コストの問題が浮上する。
警察や自衛隊は、職務として活動すべき局面が多く、ときに「だからこそ」自由な活動が制限されがちである。小泉防衛相の言う通り、自衛隊はなんでも屋ではない。そして、有事となれば自由に武器を使える人々でもない。むしろ、常に武器を所持できるからこそ、その使用には厳重な制限がかかっている。
だからこそ、自治体のクマ駆除係「ではない」猟友会のような組織が必要とされるのである。
先述の積丹町は今年度、年額で約720万円をエゾシカとヒグマへの対策事業に計上している。町議がムダな出費だと言う理屈はわかるものの、現実的に年額約720万円で十分な数の常勤の隊員を雇用できるわけがない。猟友会の協力を得ることは、自治体にとってもきわめてコスパが良いのだ。
降ってわいたように生じた役割のために、有志団体を含めた外部組織に「外注」するというのは、企業組織にとってごく普通の意思決定である。
そして「誰がやるべきかわからないけど、とりあえず喫緊の課題なので引き受ける」ということも、企業組織では日々当たり前に生じる。サラリーマン用語で言うところの「三遊間のゴロを拾う」というやつだ。
経営学では「バランス分化」という概念もある。分化とは組織の役割が分かれることを指し、バランス分化とは分業をしながらもフレキシブルに部署の垣根を超えて仕事をこなすような組織構造を意味する。日本企業は伝統的には、部署をはじめとして役割分担をしつつも、柔軟に行き来する調整者の存在によって仕事を最適化してきた。
経営上のホットトピックとして似た話題に、「人的資本経営」がある。コーポレートガバナンスコードの定めで、上場企業による情報開示が義務化された人的資本経営。いま企業において悩ましいのは、「その情報開示は誰がやるのか?」という問題である。
組織に情報を収集し、整理し、管理する機能は必ずしも備わっていない。少なくとも、開示が可能な程度に把握している企業ばかりではない。人事部が最もそれに近い仕事をしてきたものの、昨今の風潮からすれば採用にかなりの労力を割いており、入社した人々の情報やマネジメントは相対的に軽視されてきた。義務化してから、そういった機能がないことに気付いて、慌てている企業もどうやら少なくない。
クマ問題の要諦は、人里に出現するクマがこのように急増している原因が定かでないことや、農作物の被害や人命の危機があるだけではない。
組織論の観点からすれば、「誰がすべき問題か」決まっていないことが問題なのだ。クマ退治の専門家を各自治体が雇用しているわけでもないし、することが賢明であるともいえない。クマ問題は、人命の危機を伴うような危険性をはらむにもかかわらず、誰がどう処理すべきか定かでない空隙に生じた問題なのだ。
とはいえ、法整備や、自衛隊や猟友会など既存の組織を活用して、社会として何とかしようという強い姿勢がみられることに疑いはない。今後の対策に向けて重要なことが二つある。
まずは、変革が必要なことについてトップが毅然と指針を示すことである。これは現状、クマ問題についてはできているように思える。
そして、組織間連携によってでしか対応できない問題であることを、ステークホルダーが認識することである。町議の最大の落ち度は、議会ではコストカットを主眼に置いていたとしても、その論理は猟友会には通じないことを認識すべきだったことにある。
連携相手である取引先に「あなた達は高すぎる」と言ったところで、別にそれで生計を立てているわけでもない相手が、意見を呑むとは思えない。報酬が適正なのか、町の予算として持続可能かを考えることにはむろん意味があるが、今「三遊間に飛んだゴロ」を処理してくれるのは猟友会の他にないわけだ。「今、伝えるべきこと」ではなかっただろう。
持ちつ持たれつ、お互い様、お世話になっている同士なのだから、リスペクトをもって接したらいい。既存の組織だけでは処理しきれない仕事が生じている場合は、そうやって連携して乗り切るほかには、有効な手段はないのである。ましてや、営利の論理が成立しづらい領域ならなおさらだ。
誰がやるのかわからないが必要なことはたしかである、という「三遊間のゴロ」は、コロナ禍の頃にたくさん飛んできていたように思う。部分的には対処に失敗したし、うまくいったこともあったはずだ。少し前の教訓を思い出しながら、クマ問題には「総力戦」で取り組まなければならないだろう。
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(経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師 舟津 昌平)