「無差別殺人と変わりない」 小5死亡事故、母が命日に意見陳述

東京都葛飾区四つ木5の国道6号(水戸街道)で2020年3月14日、近くに住む小学5年の波多野耀子(ようこ)さん(当時11歳)が軽ワゴン車にはねられて死亡した事故で、赤信号を無視したとして自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)に問われた元配送業、高久浩二被告(69)=埼玉県三郷市=の裁判員裁判が14日、東京地裁(西野吾一裁判長)であり、検察側が懲役7年6月を求刑して結審した。判決は22日。
14日の公判では両親が意見陳述した。母親の主な発言内容は以下の通り。
娘も気に入った名前
私は、この事故で亡くなった耀子の母です。夫は重傷を負い、私の人生はあの日から全く違うものになりました。今日は皆さんに、耀子がどれほど私にとって大事な娘だったのか、知っていただきたいと思います。
耀子がおなかにいる間、私はつわりがひどく、切迫早産もありました。子宮を縛る手術をして、何カ月も安静にしてやっと生まれた赤ちゃんでした。小柄でしたが、髪はふさふさして肌がとてもきれいな赤ちゃんでした。
夫婦ともに、「子」の付く名前を考えていました。主人の母がいろいろと案を出してくれて、その中から「耀子」という名前に決めました。私の母の名前の「光」も入っていますし、奇麗な字だと思いました。耀子本人もとても気に入っていました。
毎朝作ったお弁当
夫婦共働きで、耀子が生後8カ月の時から私の母に預けて働き、1歳4カ月で保育園に入りました。小学校に入るまでは、よく熱を出して耳鼻科に毎日通いながらも、会社員と同じような時間帯で月曜から金曜まで頑張って保育園で過ごしてくれました。スイミングスクールにも入り、ピアノを習い始め、夏のお泊まりキャンプにもお友達と参加したり、幼いうちからたくさんの経験をしました。
小学校に入ると、英語や町内会のおはやしも始めました。学童保育は3年生までしか利用できないため、その代わりに3年生の終わりから、中学受験向けの塾に通わせました。できるだけ、1人でのお留守番を少なくしたかったからです。本人が嫌がらなければ、そのまま受験を目指してもいいと、柔軟に考えてのことでした。
塾へはとても楽しく通っていました。お弁当もみんなで楽しく食べていたようですが、私はお弁当のリクエストに応えるのが大変でした。「おかずをたくさん何種類も入れてほしい」「きちんと2段弁当にして」とのことでした。
朝の出勤前の忙しい時間帯ではありましたが、「耀ちゃんが喜ぶなら」と、私は頑張って作りました。冷凍食品は1種類だけ入れていい約束でした。耀子は私の手作りを好みました。5年生からは、週に3回お弁当を持って塾に行き、頑張りました。
目標達成を伝えたい
勉強は、算数が苦手だったので、ストップウオッチを片手にたくさん勉強しました。私はイライラして怒ったことも数多くあり、今では可哀そうなことをしたと悔いています。自ら、個別タイプの塾も併用したいと言い、理科も頑張っていました。
先生とのやり取りが楽しかったようで、亡くなった後にうちに来てくださった学生の先生から、塾での耀子の話をたくさん伺いました。休憩時間に目が合うとにこっと先生に笑いかけて、ドラマの話なども楽しく話していたようです。
先生ご自身も同じ塾のOBだったので、昔のノートをコピーさせていただき、耀子ちゃんの理科の成績を上げるぞ!と頑張ってくださいました。最後のテストは人体の分野で、目標点を掲げて頑張っていました。亡くなった2日後に楽しみにしていた成績が発表されました。目標を達成することができました。耀子に知らせてあげたい気持ちでいっぱいでした。
とにかく優しい子
また、耀子は、リカちゃん人形が大好きでした。ジオラマのような小物も大好きで、それらを使ってリカちゃん人形で遊んでいました。それは5年生になっても変わることはなく、リカちゃんやその他のお人形と一緒によく湯船につかっていました。七五三は、みこさんの格好をした非売品のリカちゃんがもらえることを目当てに、赤坂の日枝神社で2度ともご祈とうしました。東京オリンピックとパラリンピックのリカちゃんも購入し大切にしていました。それらのお人形は全て棺に入れました。
私の作る料理は、ハンバーグやミートソース、ショウガ焼きなどなんでもよく食べてくれました。セロリスープなど香味野菜も好きでした。外食はなんといってもウナギが好きで、祖父母の家にお泊まりに行くたびにウナギ屋さんに出掛けていたようです。
耀子はとにかく優しい子でした。そして明るく前向きです。親である私たちが一番感心していたのは、何事もあきらめずコツコツと続けるすごさです。そんなに負けず嫌いでもなくてひょうひょうとしていましたが、練習を続け、スロースターターでありますが、いつの間にか上達していました。人に気を使わせないところもあり、保護者の方からは「耀子ならいつ遊びに来てもいいよ。どんなに部屋が汚くても耀子なら見せてもいいわ」とよく言ってもらいました。
1年生の頃から親友もできて、今でも親友です。その子はお骨あげもしてくれて、私のことを現在も助けてくれます。耀子は、男女年齢問わず、みんなと仲良くしていたと思います。不器用なところもあり、図工や家庭科などの専科の先生には特にお世話になりました。学校も大好きで、行きたくないと言ったことは一度もありません。そして、どの習い事もやめたがらないので、忙しくなり過ぎてしまい、整理するのが大変でした。
娘がいない世界
耀子がいる時は、全て耀子を中心に、朝から寝る前まで、毎日バタバタと生活をしていました。朝のNHKの連ドラを見ながらご飯を食べて、急いで出かけます。私はベランダから水戸街道へ曲がる道まで、毎朝赤いランドセル姿の耀子を見送っていました。
学校から帰宅したら、私が作り置きをしたお弁当を自分で温めて、それを持ち塾へ行きます。夜は駅までお迎えに行き、小腹をすかせた耀子に、軽食やスープを食べさせて寝かせる毎日でした。
塾の無い日は、いつもお友達と遊ぶ約束をしていました。私は仕事中もキッズケータイのメールでやり取りをして、場所を把握していました。そんな毎日が明日もあさっても当たり前に続くと信じていました。
事故の後、まず目が覚めたら、毎朝耀子がいない世界を感じます。夢を見て、自分の泣き声で目覚めることもあります。子供がいない生活になりました。作る料理も洗濯物の数も、何もかもが変わってしまい毎日が苦しくなります。朝早いお弁当作りも、ベランダからの見送りも、塾のお迎えも、夜の軽食作りも、耀子とのメールのやり取りも、全て無くなってしまいました。
生きていたら……
小学校を卒業した後は、本人が望む学校へ進ませてあげたかったです。11歳の時点で、スキーやスイミングなど、親の私たちよりもできることが多く、成長がとても楽しみでした。いろいろな困難にぶつかっても、耀子ならあきらめずに乗り越えてくれるだろうと頼もしく思っていました。
子供は4人欲しいと言っていて、保育園に預けてママのように働くのだと話していました。私は、なるべく近くに住んでサポートができればいいな、など漠然と考えていました。毎年の主人の両親との年越し旅行や、夏休みや大型連休の家族旅行をとても楽しみにしていて、これからは外国にも連れていきたいと思っていました。
もし、今耀子が生きていたら、もっと話をたくさん聞いてあげたいです。時間をせかすこともなく、耀子の話をたくさん聞いて、いろいろな希望をかなえてあげたいです。そして以前のように、暖かいベッドで一緒に寝てほおをなで、抱きしめたいです。
耀子の部屋はあの日のままです。今も以前と同じように掃除をしています。耀子の誕生日は、命日よりもきついです。小さなケーキを用意して耀子が喜ぶであろう料理を用意し、私たちが食べます。歌などは歌いません。ただ静かに過ごします。
私は、不十分な母親だったと思います。もっともっと穏やかにおおらかに構えて育てるべきでした。ただ、こんなママですが、耀子はとても素直でいい子に育ってくれていました。いつも家族3人で一緒でした。
耀子との最後のメールのやり取りは「今日はどうしても3人でご飯を食べたいの」だったと思います。遅いからパパと2人で食べてきたら?との私の問いかけへの答えでした。耀子が欠けた今も、私たちは耀子の気持ちを想像して、耀子が嫌がることはしないようになんとか頑張って過ごしています。
「14日」がつらい日に
今日は耀子の命日です。2年前の3月14日から耀子に会えていません。あんなにも毎日一緒だったのに突然の別れとなりました。私は2月14日が誕生日で、主人の誕生日は10月14日です。それなのに、14日という日がとてもつらい日となりました。
耀子は「正義の子」だからと言われたことがあります。悪いことは悪いと言える子、それは違うとはっきり言える子だと言われました。ルールを破ることに抵抗があり、いじめや陰口を最も嫌っていたと思います。事故当日のニュースに、歩行者が青信号で渡っていたとはっきり書かれていたと聞き、耀子の正義が証明されたと、そこだけはほっとしました。
いつも慎重に道路を渡る子でした。踏切も音が鳴り始めたら、絶対に渡りません。前日も事故と同じ横断歩道をピアノのレッスンへ向かうために通りました。心配性の私は、帰りも水戸街道まで耀子を迎えに行きました。自転車に乗り信号待ちをしていた耀子は、青になると首を大きくふり左右を確認し、ニコニコ顔で私のもとに駆け寄りました。
このように大変慎重な子でも、命を奪われました。たまたま耀子たちがひかれてしまいましたが、誰がひかれてもおかしくありません。無差別殺人と何ら変わりないと思っています。
耀子は身長152センチ、体重35キロのきゃしゃな体でした。なぜ少しでもブレーキを踏んでくれなかったのか。大けがで済んだかもしれないのに。毎日そう思い、悔しいです。耀子は、私たち夫婦のたった一人の娘で両祖父母にとってもたった一人の孫でした。最愛の宝物です。耀子を身勝手な運転でひき殺し、私たちの人生も心も殺しました。