原発事故で解体の幼稚園 園児に個別連絡なく私物撤去へ

東京電力福島第1原発事故で使われなくなった福島県大熊町立大野幼稚園のかつての園舎に11年放置された通園バッグや道具箱などの私物について、町が当時の園児約200人に持ち出せる機会を連絡することなく撤去することが明らかになった。町は7月下旬に園舎を事故後初めて開放したが、広報紙やホームページでの周知にとどめ、9月にも私物とともに園舎を撤去する。町担当者は「個別に案内する余裕がなかった」と釈明している。
1972年開園の大野幼稚園は震災当時196人が在籍し、園舎のあるエリアは6月30日に避難指示が解除された。町は昨年6月に当時の保護者から見学や私物持ち出しの機会を設けてほしいと要望を受けていたが、園舎開放に向けて、県内外に散らばった当時の園児の避難先に個別の案内を郵送する準備は進めていなかった。
一方で町は劣化した園舎の解体を環境省に依頼しており、同省から今年6月ごろ、「9月にも解体工事が始まる」と連絡があった。町は7月28~30日に園舎の開放を企画し、広報7月1日号やホームページで告知したが、個別連絡は郵送作業に1カ月ほど要するため実施できなかったという。
開放された3日間に訪れたのは6家族にとどまり、翌週の8月1日に1家族が参加した。町は過去に町立小中学校の私物を処分する際は個別に郵送案内を出していた。
大熊町の担当者は「解体撤去の作業前なら間に合うので、私物を取りに来たい人は早めに連絡してほしい」と話す。問い合わせは教育総務課(0240・23・7532)。

7月29日に園舎を訪れた当時の園児で、高校3年の白戸美月(みずき)さん(17)は広報紙の告知を見逃し、前日夜に母親が知人のSNS(ネット交流サービス)で開放を知り、急きょ両親と避難先の同県いわき市から参加した。
「かばんをずっと持ち帰りたかったんです」。白戸さんは幼稚園の行き帰りに背負った通園バッグや帽子、自由帳や道具箱を持ち帰った。バッグには3月11日付の「園だより」やお守りが入っていた。
園舎はあちこちに絵本や遊び道具が散乱し、蛍光灯も冷房もつかず、薄暗く蒸し暑い。そんな園内を2時間歩き回り、スマートフォンで写真を撮り続けた。幼稚園で一緒だった友人の何人かは今も無料通信アプリ「LINE(ライン)」でつながっている。友人の描いた絵や当時の写真もたくさん見つけた。
「毎日泣いて行きのバスに乗っていたけど、幼稚園は楽しくて帰る時は笑ってました」。白戸さんは2011年4月に同県会津若松市で再開した町立小学校に6年生の途中まで通い、その後はいわき市に暮らす。大熊町の自宅は今もバリケードで閉ざされた帰還困難区域で、住民でも15歳未満は入ることができなかったが、17歳となった今春、ようやく両親と自宅に足を運んだ。この日は震災後に町を訪れる2度目の機会だった。「やっぱり大熊町や大熊の友達は特別な感じがする。解体はショックだけど来られてよかった」。いつかまた大熊に戻りたい気持ちは今も消えないという。
自らも卒園した40代女性は7月28日に娘の道具箱や自由帳を持ち帰った。「親子でお世話になった大事な場所。子どもだけじゃなく、思い入れの強い親もいるだろうに、広報の告知文も扱いが小さく、やり方がうまくない」と首をかしげる。
避難先に住民票を移すなど広報紙が届かない家庭もあり、記者からの連絡で開放を知って参加した元園児もいた。
卒園生で、震災当時は町立大熊中の生徒だった20代女性は、県内の避難先から昨年10月の同校の私物持ち出しに参加した。「あり得ない。幼稚園も小中学校と同じく個別連絡が当たり前なのに」と絶句し、「家の次に思い出が詰まった場所が知らない間に壊されたら、一生もやもやが残るかもしれない。町の将来を背負う可能性がある世代を大事にしてほしい」と町の対応を批判する。同28日に同県いわき市から園舎を訪れた高校3年、渡部彩花(さやか)さん(17)は「幼稚園に来るのが楽しみで仕方がなかった」とまで言っていた。【尾崎修二】