1991年4月の日ソ首脳会談で、北方領土を巡り激しい応酬が行われていたことが、21日公開の外交文書で明らかになった。海部俊樹首相は共同声明に56年の日ソ共同宣言を明記するよう繰り返し求めたが、ゴルバチョフ大統領は受け入れなかった。やりとりの多くの部分は黒塗りで公開された。
会談は同16~18日の3日間、東京で計6回行われた。海部氏は17日の3回目の会談で、「歯舞群島と色丹島を平和条約締結後に現実に引き渡す」とした共同宣言について、「歴史的事実」と指摘。海部氏は会談の度、ゴルバチョフ氏に共同宣言の存在を認め、共同声明に明記するよう迫った。
ゴルバチョフ氏の回答は大半が黒塗りで、内容は明らかにされていない。当時、外務省ソ連課長だった東郷和彦・静岡県立大グローバル地域センター客員教授(77)は本紙の取材に、「ゴルバチョフ氏は、『北方4島の名前を挙げて領土問題の存在を認めるが、それ以上は応じない』という趣旨の発言をしたはずだ」と振り返った。
両者の意見はかみ合わず、17日にはゴルバチョフ氏が「平和条約の締結にどうやって歩んでいくかが問題だ。古い道を歩んでも解決には至らない」と主張。海部氏が「古い道も新しい道を開くために必要だ」と言い返す場面もあった。
18日の4回目の会談でも、海部氏は「どうしても記しておきたい」と食い下がった。しかし、ゴルバチョフ氏は「100グラムのレモンから、総理は110グラムのジュースをしぼろうとしておられる」と海部氏を皮肉り、けん制した。この日の深夜に声明が署名されたが、結局、56年宣言についての記述は盛り込まれなかった。
ただ、声明には「56年以来、長年にわたって2国間交渉を通じて蓄積されたすべての肯定的要素を活用」という表現が記載された。これについて、日本政府は「共同宣言はここに当然含まれると解される」(4月23日付文書)との見解を示した。
当時のゴルバチョフ氏の姿勢について、袴田茂樹・青山学院大名誉教授(現代ロシア論)は、領土問題に厳しい姿勢を取る共産党保守派や軍関係者による影響が大きかったと分析する。「ゴルバチョフ氏が思い切って解決の方向に進めるのは到底無理だった」と指摘している。
東郷氏は首脳会談後、ソ連外務省のパノフ太平洋南東アジア諸国局長と「次は共同宣言の確認だ」と話したといい、「ゴルバチョフ訪日は重要な一歩だった」と述懐する。2001年3月の森喜朗首相、プーチン露大統領との間で出されたイルクーツク声明は、共同宣言を出発点とすることを確認した。
クーデター失敗後、対ソ積極支援に
1991年8月にソ連内で起きたクーデター失敗を受け、日本が対ソ経済支援に慎重な立場から積極姿勢に転じていたことが分かった。北方領土返還に否定的なソ連共産党保守派が失脚し、交渉進展に望みをかけた様子がうかがえる。
クーデターでは、共産党保守派が同19日にゴルバチョフ大統領を「健康上の理由」で解任し、一時的に拘束した。だが、市民が大規模な反対集会をモスクワで開くなどし、22日に主導的役割を果たしたヤナーエフ副大統領らが逮捕され、クーデターは失敗に終わった。
枝村純郎・駐ソ連大使は同26日、極秘公電で対ソ政策について報告。「事件の結果、従来領土問題の解決のための障害と言われてきた軍部、保守派のてい抗をも除去する結果を生み」、「北方領土問題解決に与える影響であるが、基本的にはこう定的に判断して差し支えない」と分析した。「対ソ支援の一層の積極化が必要」とも訴えた。こうした情報を踏まえ、政府は10月8日、総額25億ドルの支援を決めた。
日本は対ソ支援を巡り、北方領土返還に消極的なソ連共産党保守派がソ連国内で影響力を強めていたことから「ゴルバチョフ政権の出方を見極める必要がある」として従来、消極的だった。7月のロンドン・サミットでは、支援に積極的だった独仏と消極的な日米カナダで溝があり、採択した宣言では具体的な支援に言及しなかった。