ロシアによる侵攻でウクライナから日本に避難してきた人たちは、出入国在留管理庁によると2302人(15日現在)に上る。そのうち35人を支援してきたのがウクライナ出身の小野ヤーナさん(40)と夫一馬さん(36)だ。侵攻まで長崎県の離島・壱岐市で暮らしていたが、11世帯24人の避難を受け入れた大分県別府市に移り住み「一度支援したら、もう家族。生涯をかけて支える」と意気込む。
19日に大分市であったウクライナ支援を呼びかけるイベントで、同国南部ヘルソンから一家3人で別府市に避難しているオレクサンドル・ロボフさん(42)が講壇に立った。「侵攻が始まるまで、私も戦争とはどんなものか想像できていなかった。しかしあの朝、爆撃で亡くなった人を目の当たりにして、戦争が一般の市民も巻き添えにすることを知りました。私は逃げることしかできなかった」
通訳しているのはヤーナさん。会場にいた一馬さんは、壇上の2人を見守った。「つらい体験を語るのは、避難してきた人にとって苦しいことだと思う。でもウクライナのことを知ってもらうために、講演会の依頼はなるべく受けるようにしています」。そんな一馬さんとヤーナさん夫妻を、ロボフさんは信頼している。「夫妻は優しさを持って私たちに接してくれる。家族みたいです」
ヤーナさんはウクライナ東部ハリコフ出身。留学していた立命館アジア太平洋大(別府市)で一馬さんと出会い、結婚した。その後、一家で壱岐市に移り、旧ソ連圏の障害者などを支援するNPOを夫妻で設立。寄付金で車椅子を送るなど活動を続けてきた。
しかし2022年2月24日、ロシアの侵攻で生活は一変した。ハリコフでも爆撃があり、部隊が進撃していた。「兄弟のような関係だった国同士が戦争をするなんて……」。胸が張り裂けそうだったが、夫妻は覚悟を決めた。「命をかけてウクライナ市民を助ける」。ウクライナ大使館の依頼で避難希望者とSNS(ネット交流サービス)で連絡を取り合った。就労や子供の学校、避難先などの要望をまとめ、国内の自治体との橋渡し役を担った。
日本語を教えたり職探しを手伝ったり、避難者の支援にも奔走した。当初は壱岐市と、24人が避難した別府市を行き来していたが、22年10月には別府市に移住。市も避難してきた子供たちが安心して学校生活を送れるようにと、ヤーナさんを母語支援員に任用した。
支援している避難者は別府市の他、大分県日田市や福岡、長崎両県にもいる。避難者からの相談は、ウクライナで取得した運転免許の切り替えや車の購入、市営住宅の内装工事など引きも切らない。この1年、夫妻はとにかく避難者の衣食住を整えることに注力してきた。併せて、インフラを破壊されてライフラインが不安定なウクライナに向けて、発電機の購入資金を送る取り組みも始めた。
「(相談の)電話はほぼ毎日。土日はウクライナ支援のイベントなどがあって、この1年はほとんど休みがなかった」と一馬さんは苦笑いする。それでも3月になったら花見など、日本の文化に触れてもらう機会を増やすつもりだ。「帰国したら『日本っていい国だ』と伝えてほしい。両国の懸け橋になってくれれば」
避難生活が長期化すれば、恐らく職場や学校で新たな問題が出てくる。先は見えないがヤーナさんの決意は固い。「私はたまたま安全な所から支援する機会を得た。1人でも多くのウクライナ人を助けたい」。いつの日か、復興したウクライナの地を避難者たちと巡りたい――。その日を思い描いて支援を続ける。【石井尚】